第一章 宵闇の蝶

出会い

 まだ冷たい風が吹く、冬の終わりのことだった。


 暖かな日が続いたと思ったら、急に思い出したように冬の風が吹くのだから、嫌になる。

 レネは季節にそぐわない薄手のコートの袖を引っ張ると、かじかんだ手に息を吹きかける。短く切りそろえた黒い髪と、ベビーブルーのややつり気味の目。時折男の子と間違われる伸びた背と、華奢な手足。


 故郷の村を出てから足が潰れるまで歩いて、ようやく辿りついたルーセルという街は、よそ者には居づらい場所だった。


 せかせかと足早に歩き回る住民はみんな忙しそうで、レネの声すら聞こえていないようだ。


 ようやく見つけた場末の安宿は、大した荷物も持たない十八になったばかりのレネを警戒し、部屋を貸してはくれなかった。

 ひとり途方に暮れるレネを憐れんだ宿の女将さんが飴玉をふたつばかりポケットに押し込んでくれたけれど、それ以上の助けはない。


 人の多い目抜き通りから逸れ、入り組んだ狭い路地を奥へ奥へと進んで辿り着いたのは、浮浪者や訳ありの人間が行きつく廃退地区だった。


 午後の日差しはずいぶん傾き、風が体を冷やしていく。

 破れた新聞にくるまってじっと時が過ぎるのを待つ先客に倣い、路地裏の一角に腰を下ろした時だった。レネよりもはるかに年下に見える少年に突き飛ばされ、財布を奪われた。取り返そうと伸ばした手を錆びついたナイフの切っ先で裂かれ、追いかけるのをやめた。


 人ひとりを威嚇する程度の魔法なら、いくらでも使える。けれど、なぜだか行動するのが怖くてしかたがなかった。


 逃げるように路地を離れ、気付けば再び大通りへと戻っていた。

 西日に照らされたベンチが空いているのを見つけ、倒れ込むように座る。手のひらの傷が焼け付くように痛んだ。


 先が見えない不安に潰されそうになったとき、往来で黒い蝶を見た。


 ああ、これ、知ってる。心が傷ついたときに、出てくるやつだ。


 まだ小さな男の子にまとわりつく蝶を、レネはただぼんやりと眺め続ける。

 悲しみの理由は簡単にわかったけれど、何かしてやろうとは思えなかった。だって街を行く人の群れは誰も他人の悲しみに目を向けない。だから、何をしてあげるべきかもわからない。


 見ないふりをしてやり過ごせばいい。


 そう思うレネの視界を、ちらちらと黒い蝶が飛び回る。

 泣きじゃくる子供の顔に、なぜだか罪悪感が疼く。


 その時だった。

 不意に往来から現れた青年が、少年と黒い蝶に近付いた。歩み寄る、というよりも、駆け寄ると表現したほうがしっくりくるだろう。

 まるでピンチに駆けつけるヒーローみたいだ。魔法なのか、奇術なのか、はたまた手品なのか。わけもわからないまま、青年が黒い蝶を消した。


 ああ、悲しみって消えるんだ。


 ぼんやりと浮かんだ思考が、言葉になって口から零れていたらしい。振り向いた青年は、一部始終を見ていたレネに手を差し伸べた。


 一緒に来ないか、と。

 大丈夫、と。

 その言葉にすがりたいと思ってしまった。


 ためらいがちに青年の手を取った瞬間、不思議な安心感に体中の力が抜けた。ぐらりと視界が揺れ、意識が遠のくのを感じた。

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