第50話:試験当日、香りは残るか?

期末試験初日。


教室の空気は、緊張と汗と、各家庭の柔軟剤の香りが混じり合い、

まるで“感情のブレンド工場”のようだった。


でも、僕は吸い込む空気に集中していた。


(ルナの香りはミルクティー+ミント、やや湿気気味……

美月は安定のウッディ、でも今朝は少し甘さがある。

紅葉はいつも通り、墨と紅茶。今日も無駄がない)


香りは情報。


そしてその情報をすべて受け入れて、初めて“静寂”に変換できる。


(いける。集中できる)


試験開始のチャイムが鳴った。


問題用紙のインクの匂い。

紙の端に残る印刷工場のオゾン臭。


それらすべてが、今の僕の集中を研ぎ澄ませていく。


(今だけは、香りに負けない)


……だが。


試験の中盤、視界の端で異変が起きた。


「……っ」


七瀬いぶきが、ペンを握ったまま震え、次の瞬間、机に突っ伏した。


担任が慌てて駆け寄り、彼女は保健室へ運ばれていった。


試験は終わった。


でも僕の中に残ったのは、彼女の倒れる直前の“空気の無音”だった。


***


保健室。


白いシーツの上に、いぶきは静かに横たわっていた。

額には冷えたタオル。

目は閉じられている。


僕は、その枕元に立った。


(香りが……ない)


彼女から香りが感じられない。


いつも微かにあった静けさの香り。

それが、今は“空白”になっている。


「……七瀬」


彼女はゆっくりと目を開けた。


「白井くん……」


「大丈夫?」


彼女は少し首を振った。


「……わからないの。

今日は、朝から香りが……全部、感じ取れなかった」


「みんなの香りが……ただの“空気”に思えて……

それが、怖くて……息ができなくなったの」


嗅覚。

それは、彼女の“感情のセンサー”でもあった。


それが働かなくなった時、

彼女は自分が“世界から遮断された”ような気持ちになったのだろう。


僕は、そっと顔を近づけて、静かに言った。


「……俺の香り、ちゃんと届いてるだろ?」


彼女の目が、ほんの少し潤んで揺れた。


「……うん。ちゃんと……届いてる」


それは、無香であっても。

きっと彼女にとって、“白井健太という存在”の香りだったのだ。


香りは、消える。

でも、香りの記憶は、ちゃんと心に残る。


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