第四章∶三節 アナシラの決意

ネケンにてヒナレへの扉を開いた二人は再びナブタプラヤを目指してナイルを昇っていた。


「カカセオ、俺はネケンに残る。」


広大な輝く水面に浮かぶ島々を眺めながら、唐突にバラカはそう告げる。

カカセオは驚きのあまり振り返った。


「どういう事だ…?」


白い太陽の眩しさと帆の軋む音、船首が川を割る音だけが聞こえる。


「お前はヒナレへ向かい、伝説になる。俺はネケンに残り、エジプトの伝説をつくる。」


「そうか…」


バラカの言葉にカカセオはただそれしか言う事は出来なかった。

この先、ナブタプラヤがネケンに合流するとて、その民の舵取りが出来るのはバラカをおいて誰がいようか。

カカセオは海を、バラカは人の世を船出するのである。


それがわかっているからこそ、カカセオの胸中は言いようのない哀しみに支配されるのだ。


バラカは言う。


「カーメスに降りたホルスの言葉にあっただろ?」

「遠い未来に全ては開かれる、と。」

「きっとそこでまた会えるさ。」


カカセオの頬に一筋の涙がまっすぐに伝った。

一羽の鷹が空を裂くように鋭く鳴き、やがて遥かな光の彼方へ消えていく。

太陽はただ静かに白い光をたたえていた。




二人はヌエベ村へ戻るとマルカムとアルムへネケンでの出来事を話し、一月後にヌエベにてナブタプラヤ中から人を集め、出発する事を約束した。


それから、サクタラ村に寄りザウリとマシリにも伝え、ヒナレへ向う者を集うようにと言い残しサルナプ村へ戻った。



サルナプ村へ到着すると、多くの村人が二人の帰りを待っていた。

バラカは何も言わず手を振ると家へと帰って行った。

村人の歓迎から離れ、一人になると、カカセオはふと立ち止まり、風に揺れる草の匂いを嗅ぐ。

ここからヒナレへの旅路は進み出すのだ。


その足で長老の家へと向かった。長老は預言者サファルと火を囲んでいる。


「戻ったか、カカセオよ。」


長老は満面の笑みを浮かべ、ナブタプラヤ一の勇士を讃えた。

カカセオはネケンでの出来事、ヒナレへの旅が後一ヶ月に迫っている事を告げる。


「お前が産まれる前の事を思い出す。今思えば全ては宿命だったのじゃ。お前は必ずヒナレへ辿り着く。そこで新たな世界を創り上げるじゃろう。わしにはそれが見えるのじゃ。」


サファルはそう言うと遠い目をして炎の明かりにその未来を探った。

窓から見える夜空に星が流れた。


「さて、もう夜も遅い。早く帰ってアナシラとこの先の事をよく話合うのじゃ。」


長老がそう言うとカカセオは家路へと向かった。



アナシラは夫の帰りを待ちわびていた。

家の中には静けさが満ち、彼女は編みかけの布を膝に置いたまま、しばし目を閉じていた。

胸の奥には、不安と期待が波のように押し寄せていた。

──海の向こうにあるというヒナレ。

──まだ見ぬ世界へ、彼は旅立とうとしている。


長く先の分からない航海である。しかもナブタプラヤは内陸部、海など産まれてこの方誰も見たことなど無いのだ。 それはナイル周辺の民にとっては普通の事だった。ナイル東岸には険しい山々が連なり、紅海へ出る事さえ容易な事では無かった。


しかし、アナシラは知っていた。

カカセオが歩んでいるのは、ただの旅ではないということを。

それは、このナブタプラヤという地を超え、神話となる道のりだと。

けれども、心は揺れていた。

彼の隣にいるには、自分もまた、恐れずに進まねばならない。


カカセオが戸を開けた時、彼女は静かに立ち上がった。

そして、一歩、彼の方へ踏み出すと、まっすぐな瞳で見つめて言った。


「ヒナレへ私も行くわ、カカセオ。」


その声には、微かな震えと、それを包み込むほどの確かな意志があった。

炎に揺れる可憐な横顔に決意を宿していた。

カカセオは真っ直ぐにアナシラを見つめると、優しく微笑んだ。


「生きて辿り着くとは限らない。それでも共に来るか?」


アナシラは小さく頷いた。

その微笑みは、春の夜明けのように静かで、揺るぎなかった。


二人にそれ以上の言葉は要らなかった。

天の川を横切るように、また一つ星が流れた。


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