第三章∶ヘリアカル・ライジング 一節  ネケンの大族長

セヘテプはヌエベでの仕事を終え、バラカより受け取った牛十五頭に紅花を満載に積み、護衛を率いて故郷ネケンへと向かっていた。ヌエベからネケンへは約三百キロの道のり。牛を連れて陸路を行けば二週間かかるため、来る途中で船を停めてある交易所メハ(現在のアブシンベル)へと向かった。そこで数人の護衛にナイル川沿いの陸路で牛を運ばせ、セヘテプ自身は残りの護衛と共に船でネケンへ向かうことにした。全行程八日の帰路である。


メハの交易所に着くと、そのまま船に乗り込みネケンを目指した。

ヌエベで部下を残し自身の滞在は予定よりも早く切り上げ四日間だけとなった。

セヘテプはナブタプラヤでの出来事に深く感銘を受けたことで、いち早くネケンへ伝えなければならないという使命感に駆られ、足を速めたのだった。


ヌエベを出て八日後、セヘテプがネケンの街へ戻った。市場は活気に満ち溢れ、穀物や陶器、皮革と塩が取引される声が響き渡る。乾いた土埃と香辛料の香りが混ざり合い、人々の笑い声と取引の掛け声が絶え間なく響いている。街角では詩人が詩を詠み、楽師が歌を奏で、その音楽に合わせて子供たちが踊っていた。


中央には一人の語り部が立ち上がり、「天と地が分かたれる前、人々は星々とともに生きていた…」という創世神話を力強く語っていた。その手振りと言葉は群衆の心を掴み、人々は取引を忘れて耳を傾けている。


少し離れた場所では、一人の予言者がぼろ布を纏い、古びた杖を握って静かに未来を説いていた。「未来にエジプトが統一される時がやって来る…」と低く響く声で告げたその瞬間、人々は驚きと不安で顔を見合わせた。


日干しレンガの家々は黄土色に染まり、照りつける太陽に街全体が光を帯びている。


人々の纏うリネンの生成りが街を縫い、街の中心には広場が広がり、そこから一直線に族長の館へと続く大路が伸びていた。

上下エジプト随一の街、それがこのケネンである。


セヘテプは喧騒を掻き分け族長の館へと向かった。


街の黄土色とは違う赤茶色の大きな館の前には門番が二人立っている。門の前についたセヘテプを丁寧に迎え入れた。


赤い布が敷かれ、数人の護衛によって導線が引かれた廊下の両側には金箔を施した銅の燭台が並び、光が壁の彩色布を照らす。族長の間へ入ると、精巧に模様が彫り込まれた柱が並び、床には赤いリネンの布が一面に広がっていた。豹柄の毛皮を纏った白髪交じりの長髪を束ねた族長はテーブルに腰掛け、セヘテプを待っていた。


セヘテプは族長の前へ進み出ると椅子を引き座った。


「メスウト、今戻って参った。」


メスウトは目を細めて笑みを浮かべ言った。


「セヘテプよ、よく帰った。」

「少し予定より早いが、伝達からお前が戻ると話を聞いてから楽しみにして待っておったぞ。」


セヘテプは頷き答えた。


「直々にヌエベへと向かい、その現状を見て参り早急に知らせるべき事があった。」


「ふむ、それは吉報か?それとも凶報か?」


メスウトは少し眉を下げセヘテプを見つめる。


「ネケンにとって利となり得る報せだ。」


メスウトの顔は明るくなった。


「それは何よりだ。お前のその報せならばきっとネケンの民への福音となろう。」

「して、その報せとは?」


何をどう伝えれば正しく伝えられるのか、セヘテプは一度頭の中で整理した。


「ヌエベへの視察において、ナブタプラヤの首都とも言えるサルナプ村から使者が参った。対面したが、驚くべき人物であった。」


メスウトはゆっくり頷く。


「その者の、名はバラカ…」


「バラカ…」


メスウトはセヘテプが口にしたその名を繰り返した。


「うむ、まだ歳は二十半ば頃の青年であった。」


メスウトは次の言葉を待った。


「極めて聡明、戦略的思考を兼ね備えた才に秀でる者であった。」


「ほう、お前がそう言うほどの者がナブタプラヤにいたのか…」


「うむ、その者とのやりとりの中で私はナブタプラヤという地がいかなる場所であるかを知る事が出来た。」


メスウトは少し上を見上げ言葉を返した。


「ほう…」


「高度な思想と文化を持つ部族であった…」

「そして…何よりも驚かされたのは、彼らが持つ星読みの技術だ。」


メスウトは今度は少し眉を上げ遠くを見つめる。


「星読み…」


セヘテプは続けた。


「我々ネケンにとって極めて利と成り得る技術だ。」


セヘテプの言葉を聞いたメスウトの目が、一瞬鋭く光る。静寂が広間を満たし、束の間時が止まった。やがてメスウトは深くうなずき、低く、しかし確たる信念を持った声で問うた。


「我らも星々の理解は持っている。そのナブタプラヤの星読みとやらが、どうネケンの民にとって利となるのだ?」


「ネケンの威信を各国に知らしめる事が出来る。」


セヘテプの言葉にメスウトは困惑した。


「威信を知らしめる?それは戦略的な事を意味するのか?」


「ナブタプラヤの民は星読みを用い、夜でも迷うことなく進軍できる。」


少し間を開けメスウトは頷き、言った。


「夜襲が可能となるわけだな。」


「うむ。それにより敵は昼夜問わず脅威に怯え、士気を失うだろう。そして、彼らは南北という方角の概念を持っている。」


「南北?日の出、日の入りの他に方角があるのか?」


「あぁ…我らがナイルの川上と川下の概念は、天の理の中では南北となる。それは目には見えぬが、影がその存在を顕現させるようだ。」


一つ短い溜息をつくとセヘテプは続けた。


「その南北の方角に星を割り当て、東西に割り当てられた星と交差させる事により位置を知る。それは夜に的確な進軍が可能となる事を意味する。」


メスウトは少し考えると直ぐに理解したように頷く。


「我らは山々や丘、木を目印に方角を知る。しかし場所が変わればそれは通用せず、指令系統に大きな支障となり統制は取れぬが、天の方角を使えばどこにいようと問題にはならぬ。」


セヘテプが言い終えるとメスウトは頷き、話を変えた。


「我らの星に対する理解は神へと通ずる物だ。ナブタプラヤのそれは戦術としてだけの物なのか?」


「いや、極めて体系的に神秘を説くものでもあった。」


メスウトは少し椅子に背もたれ、顎を上げると興味深そうにセヘテプを見た。


「ほう、神秘を説く…星が一体何をどう説くと言うのだ?」


「ナブタプラヤの人々の世界観では、この世界は循環する円によって万物や人の生死までも支配されており、その中で人は飢えと乾きに満ちた世界に生きると説く。その苦しみから抜け出す為に、星読みによって先ず自らの位置を知る事により、円から抜け出す最短の道を行けると信じているのだ。つまりこれは、環境がどうであろうと、天の標準から自らの位置を定める事によりあらゆる迷いに惑わされる事無く進む事が出来るという事だ。それを天の視点と呼んでいた…」


「循環する円…この世は苦しみに満ちた世界…円から抜ける…天の標準…」


メスウトは初めて聴くその概念に時が止まったかの様に放心した。

そして、絞り出すように声をあげた。


「その様にこの世を捉えて一体何の意味があるのだ?ナブタプラヤの者たちはこの世界を忌むものとして生きるのか?」


メスウトは困惑した。

セヘテプは少し間を開けて口にした。


「その事によりこの世の真実を見抜き、慈しみの中で生きるという事ではないか…?」


メスウトはまるで雷に打たれたかような衝撃を受けた。強い者が弱い者へ世界を提示し、慈しみを授ける事が当たり前の世界観であり、人間界だけでなく自然界もまた、メスウトにはその様に見えていた。セヘテプが語るその世界観は今までの世界とまるで真逆の論理だったのだ。

どのくらい無言が続いただろうか。護衛の者たちは横目で互いを見合っていた。

セヘテプは顎を引き、握った片手をテーブルに置いたまま沈黙に身を置いた。

やがてメスウトは口を開いた。


「うむ…話はわかった。セヘテプ…長旅疲れたであろう。ゆっくりと休むが良い。」


メスウトは力無くそう言うと、セヘテプは立ち上がりメスウトを見つめると頷き、引き下がった。


族長の間は、テーブルに取り残されたメスウトと護衛達の胸騒ぎだけが静かに支配していた。


程無くしてメスウトは思った。

(星を読む事で己の位置を知る。これは一体どの様な意味を持つのだろうか?占いの類であろうか?それにしてもセヘテプがあれほど感銘を受けるとは只事ではない。一度バラカとやらをネケンへ呼ばねばならぬ様だ。)


翌日セヘテプはメスウトから呼び出され再び族長の間でテーブルを囲んでいた。


「昨日はゆっくりと休めたか?」


「うむ。一体どう説明したら良いのか案じておった。」


メスウトはゆっくりと頷くと言った。


「昨日私なりによく考えてみた。お前がナブタプラヤについて話す時の表情、仕草からこれは只事ではないとわかった。しかし、星読みがどういう物なのか詳細を知らねばならぬ。」


「わかっておる。一度バラカをネケンへと呼び、ナブタプラヤの全貌を聴くのが一番かと思うが、どうであろうか。」


「うむ、そうするのが良いだろう。」


「実は、これより約八週間後、ヘリアカル・ライジングの日にヌエベにて大競技会なるものが開催されるようだ。その詳細を得る為、三週間後ヌエベにて再度バラカと落ち合う約束を交わして参った。」


セヘテプがそう打ち明けるとメスウトは興味深そうにセヘテプを見て言った。


「ほう、大競技会とは…一体何をするつもりだ?」


「ナブタプラヤ全土より勇士を集め、槍投げ、弓、投石紐を競う催しのようだ。そこへネケンより興味のある者をバラカは招待している。」


「なるほど、それは中々に面白い。バラカはどういうつもりでその提案をしてきているのだ?」


「牛を、十五頭預かっている。」


「ナブタプラヤの牛か!それは中々の貢物だ。」


メスウトは身を乗り出した。エジプト全土において牛は富の象徴であり、中でもナブタプラヤの牛は乾燥にも強く一級品として重宝され、ネケンと言えども手に入れるのは至難な事であった。


「うむ。護衛の者がナイル沿いを運んでいる。後五日もすればネケンへ入る予定だ。」


メスウトは少し考え、セヘテプに言った。


「ならばセヘテプ、三週間後もう一度ヌエベへ行き、その際にバラカをネケンへと連れて参るのはどうだ?」


「わかった。」


セヘテプがそう言うとメスウトは頷き、話を変えた。


「それはそうと、紅花については今後どうなる?ネケンではもちろん、エルカーブやゲブトゥ、アビドスでも需要が高まっている。」


エルカーブはネケンからナイル川を挟んだ対岸の姉妹都市であり、ゲブトゥとアビドスはネケンから北の都市である。これら四つの都市は当時上エジプトの中心的な地域である。


「ヌエベの村長が言うにはナブタプラヤ全域に紅花栽培を拡大し、来年には大幅に増やす算段だと申している。」


「うむ、それは素晴らしい。よくやった、セヘテプ。」


メスウトはセヘテプの仕事に感嘆し喜んだ。

セヘテプはメスウトの目を真っ直ぐ見つめ、頷いた。


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