第一章∶四節 セトゥの悲しみ
人が居なくなった小高い祭り会場から少し離れ、広大な湿地を見渡せる場所に巨大な牛の石像が立っている。そこに一人佇むセトゥの姿があった。
嗚咽と共に時折鼻をすする音が聞こえる。
彼は牛の首に巻いていた お守り(貝殻や紐) を握りしめ、涙を流す。
「ごめんな…」
その言葉だけが彼が口にできる唯一の言葉であった。
セトゥを探しに来たカカセオは、その姿をみつけると静かに後ろに立ち、しばらく何も言わない。
そして、ゆっくりとセトゥの横に座る。
「お前の牛は、何のために生まれてきたと思う?」
セトゥは涙を拭きながら、「…俺と一緒にいるためだった」 と答える。
カカセオは頷き、草を喰む牛達を見つめる。
「そうだ。お前と一緒に、強くなるために生まれてきた」
「そして、今、お前は強くなったか?」
セトゥは、しばらく黙ったまま、こくりと頷く。
「ならば、お前の牛は、間違いなく生きた証を残したのさ」
セトゥは小さく震えながら、お守りを胸に押し当て、目を閉じた。
涙は止まらないが、その中に静かな決意が宿る。
草を喰む牛達の向こうに葦船がゆっくりと水路を渡っていった。
太陽は眩しく広大な湿地の草と帆を白く照らしていた。
村に戻ると人々は牛の肉を分け合い、村人による夜の祭りに向けていそいそと準備を進めていた。
ソルガムを挽く音と、肉を炙る香ばしい匂いが漂う。
子供たちは木の枝を手にして踊り、女たちは歌を口ずさみながらソルガムを練ったパンを次々と焼いている。
長老の家にいくと、長老を囲むように四人が集まっていた。彼らは呪術師と預言者で、隣村であるサクタラ村からも二人訪れていた。
この辺りの大きな村では大抵、呪術師と預言者がおり、呪術師は薬草の知恵や魂について深い知識を持っていた。預言者は星を読み、未来に起こる出来事を予見する役割を担っている。
彼らはカカセオを見ると輪に加わる様にと招き入れた。
話は、ナイル中流域の上エジプト勢力についてであった。
サクタラ村の預言者が口を開く。
「最近、我が村の北にあるヌエベの村にまた上エジプトの使いがやってきたそうだ…」
話の内容はヌエベの特産品である紅花の交易についてだったが、不当な条件を突きつけ、護衛と称した兵を連れてきたようだ。今までもヌエベではこの様な事が何度か起きていたが、その場しのぎでなんとか追い返していた。しかし、今回は派兵をにおわせてきている事からサクタラ村でもヌエベと共に対策を練らねばならない時がきたかもしれない…と。
サルナプ村の呪術師が口をひらいた。
「ならば、わしらも共に対策を練ろう。わしのせがれは知恵が回り口も達者だ。ヌエベに送り交渉役につかせよう。」
「おぉ、それが良い。バラカならばきっと事なきを得れる。のう?カカセオ。」
もう一人の預言者がそうカカセオに問う。
カカセオは少し考えてから大きく頷いた。
バラカはカカセオの兄貴分だった。幼い頃から共にし、多くの事をバラカから学んできた。星を読む事、牛達への接し方、狩りの方法。カカセオはバラカの背中を見て育ってきたのであった。彼ならきっとこの状況を切り抜けられる、そう確信した。
長老は柏手を打ち
「そうとなれば、一先ずアカシアの儀礼に向けて準備にかかろう。またそこで星の導きがあるじゃろう。」
「おぉ、そうじゃ、今宵は神託を得る時じゃ。もしも必要ならば星がわしらの行く先を示してくれるじゃろうて。」
サクタラ村の呪術師と預言者は気を取り直し、大きな袋から樹皮の束を取り出した。
「これは神秘のアカシアじゃ。この日の為にナクル山から採ってきて発酵させておいたのじゃ。」
サルナプ村の預言者は身を乗り出し樹皮を覗き込んだ。
「これは…よく採ってこれたもんじゃ。ナクル山は三年前の大雨で山崩れをおこし、人が寄りつかなくなってから黒いたてがみを持ったライオンの群れが住み着いてしまったと聴いた。」
サクタラ村の預言者は一呼吸おいてから語りはじめた。
「実は一ヶ月前のことじゃ。ナクル山へ様子を見に行った時にわしは急に眠気に襲われ、その場で眠り込んでしまった…」
「お前は何者か?」
どこからともなく響く声が聴こえ、目を覚ますとそこには黒いたてがみを持ったライオンが座っていた。
そしてライオンは攻撃することなくただこちらを見つめていた。
預言者は「私は星の導きを受けた者だ」と心の中で唱える。
するとライオンは
「私はナクルの主。お前の望む物を与えよう」
と言い放ち、ゆっくりと歩いていった。
預言者がその後をつけていくと、そこに神秘のアカシアが生える林を見つけたのだった。
話が終わると、サルナプ村の預言者は発酵した神秘のアカシアを両手に持ち、「ナクルの主よ、賜り物に感謝いたします」と何度も頭上に上げ下げを繰り返した。
腐葉土の様な、むっとした匂いで、所々繊維が
この神秘のアカシアは、その辺りに生えるアカシアとは比べ物にならない程のビジョンをもたらす。ナブタプラヤの呪術師や預言者は、古来よりこの神秘のアカシアによって啓示をうけたり、病を癒してきた。
本来ならば、大量のアカシアの樹皮を一月の間発酵させてから乾かし、砕き、何日もかけて煮込み続け濃縮する事によって得られる効能を、この神秘のアカシアでは一週間の発酵期間と、数時間煮込む事によってその何倍もの効果を得ることができる。
サルナプ村とサクタラ村の呪術師は神秘のアカシアを担いで立ち上がり、外へ出ていった。
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