第34話 真実への前奏

春の雨が、静かに屋根を叩いていた。


土曜日の午後、美奈は自室のカーテンを少しだけ開け、濡れた庭の景色を眺めていた。

雨の匂いがかすかに漂っている。


前夜、父・シンスケが言った言葉──「全部、ちゃんと話すよ」──が、頭の中で繰り返されていた。


(いつ? どこまで? そして、私は……ちゃんと聞けるんだろうか)


そんな思いを抱えながら、彼女はリビングへ向かった。


父は珍しく朝から何も言わず、理容室を閉め、ソファに座っていた。

テレビはついていたが、内容は耳に入っていないようだった。


美奈が声をかけると、父はゆっくりと顔を上げた。


「話すか」


たったひと言。

それだけで、美奈の心臓がどくんと鳴った。


うなずくと、父は立ち上がり、自室へと歩き出した。


その背中を追うように、美奈もついていく。


父の部屋は、どこか懐かしい埃の匂いがした。

押し入れの隅から黒いファイルを一冊取り出すと、父はそれを机の上に置いた。


「研究室にいたころの記録だ。すべてじゃないけどな」


美奈は椅子に腰を下ろし、ファイルを開いた。


そこには、遺伝子配列の解析図、組織再生に関する論文草稿、そして無数の手書きのメモが並んでいた。


その中に、一枚の小さな紙片が紛れていた。


“リバース──失われた存在を、失わせないために。”


美奈は、思わずそれを手に取った。


「これは……お父さんが書いたの?」


シンスケはうなずいた。


「研究は、もともと再生医療の基礎だった。

けどな、あるときから方向が変わった。

……“何か”を取り戻すために、使えるかもしれないって思ったんだ」


その“何か”が何を指すのかを、美奈はもうわかっていた。


「事故があったよね。私が生まれたころ」


「……あった。震災で病院が崩れた。

NICUも壊れて、救出に時間がかかった。

お前は、無事だった──そう思っていた」


美奈は、その言葉にわずかな引っかかりを覚えた。なぜ、そんな言い方をするのか。

胸の奥に、ひやりとした疑問が湧いた。


シンスケの目が、一瞬だけ泳いだ。


「でも──誰かが、無事じゃなかったんだよね?」


沈黙。


美奈は、机に置かれた資料をそっとめくった。

あるページに、赤ん坊の足型が印刷されていた。


そこには、名前も、日付も、記されていない。


「この子は……誰?」


シンスケは、静かに言った。


「“美奈”だよ。

……本当の、美奈」


頭の奥が、真っ白になったような感覚。


言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。


「じゃあ……私は?」


「お前は、俺たちの娘だ。だけど……その子じゃない。

お前は、あのあとに生まれた。

……すべてを、取り戻すために」


それ以上、シンスケは語らなかった。


だが、美奈の中で、無数の点がつながっていく音がした。


無名の墓標。

祖母の言葉。

“リバース”という言葉。


(私は、“誰か”の代わりなのか?)


──いや、違う。


(私は、ここにいる)


震える手で、ファイルの最後のページを閉じた。


静かな雨の音が、また耳に戻ってくる。


「話してくれて、ありがとう」


それだけを言い、美奈は部屋を出た。


自室に戻ると、机の上のノートに目を落とした。


まだページはたくさん残っている。

けれど、その白さが怖くはなかった。


(これが、私の“前奏”なんだ)



『リバースメモリー』より

 その名を 知る前から

 わたしは あなたとつながっていた

 ひとつの光が消えたあと

 静かに 生まれたもうひとつの灯り

 奪うためじゃなく 継ぐために

 消えた時間の先へ

 わたしは 歩いていく

 名を引き継ぎ 声を与えるために


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