第32話 再訪
曇りがちな空に、かすかな春の光が射していた。
美奈はバスを降り、ゆっくりと坂を上っていく。祖父の墓がある寺は、町外れの小高い丘の上にあった。ここに来るのは、あの日──父が小さな無名の墓標に手を合わせていた日──以来だ。
風は冷たかったが、梅の花がほころび始めているのが見えた。
(変わっていくものと、変わらないもの)
それを確かめたくて、美奈はこの場所に足を運んだ。
寺の境内には誰もいない。石段を上がり、本堂の横を抜けて、裏手の墓地へ向かう。
そこに、祖父の墓と、あの無名の墓標がある。
(今日も、誰かが来ているかもしれない)
そう思ったが、そこには誰の姿もなかった。
足元の土はまだ湿っていて、最近誰かが立ち止まった跡が残っていた。
(お父さん……)
墓前に立ち、美奈はそっと手を合わせた。
祖父の墓の前では静かに目を閉じ、その隣にある、小さな無名の墓標に向き直る。
そこには、名前も日付も刻まれていない。ただ、苔むした石がぽつんと立っている。
けれど、美奈にはその前に立つ意味が、以前よりもはっきりと感じられていた。
(ここには、“誰か”が眠っている)
それが誰なのか、なぜこの場所にあるのか。
まだ確かな答えはない。
だが、何かが失われた跡であることだけは、美奈の直感が告げていた。
ポケットから、折りたたんだ紙片を取り出す。
先日、すみ江から預かった祖母・法子のメモ。
“あの子が生まれなかった世界で、私はどんな夢を見ただろう”
短く、そして痛々しい言葉。
それが何を意味していたのか、ようやく少しだけ分かってきた気がする。
(おばあちゃん……“あの子”って)
この墓標の下にいる誰か。
そして、美奈自身。
(もしかすると、私が今ここにいることと、
この墓標の存在は、同時に生まれたものなのかもしれない)
風が、音を立てて吹いた。
手を合わせ、静かに目を閉じる。
名前を呼ばれなかった誰かの代わりに、美奈は心の中でつぶやく。
(あなたのことを、私は忘れない)
そのあと、美奈は寺を後にし、山を下る途中にある小さな資料館に立ち寄った。
震災の記録や被災地域の写真、当時の新聞のコピーなどが展示されている。
受付の女性に声をかけ、病院に関する資料を尋ねると、奥の閲覧室に案内された。
当時の新聞記事の中に、破損したNICUの写真とともに、救出された新生児の話が掲載されていた。
〈新生児5名、奇跡的に無事救出。うち1名は保護時に身元不明のまま発見されるも、数日後に家族と判明〉
(……これって)
その“1名”が、美奈だったのか。それとも、別の子だったのか。
記録はあまりに簡潔で、それ以上の情報は書かれていなかった。
(でも、この記録が存在するということは──)
あの混乱の中で、“誰か”が一度は見失われたのは、確かなのだ。
そしてその誰かが、今も“見つかっていない”まま、存在の輪郭だけが残されている。
(私がこうして生きているということ。
それは、“誰か”の代わりではないと、信じたい)
でも、たとえその想いが幻想であったとしても。
(私は、あなたがここにいたことを記憶する)
夕方、帰りのバスを待つベンチで、美奈はノートを開いた。
書きかけの『リバースメモリー』。
その余白に、ペンを走らせる。
『リバースメモリー』より
石の下に 名のない記憶がある
手を合わせるたびに すこしずつ
それが わたしの声に変わっていく
忘れられた誰かと 交差するたび
わたしは 少しずつ 自分の形を思い出す
名を持たぬ人に
いま 心で名を呼ぶ
わたしは ここにいるよと
そっと 返事をするように
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