第30話 父の記録
朝の光が障子越しに射し込む中、美奈はひとり居間の棚を見つめていた。
前夜から続く胸のざわめきが眠りを遠ざけ、早朝の静けさの中で目を覚ました。
ふと目に留まったのは、父・シンスケの書斎から持ち込まれた段ボール箱だった。
ラベルには「旧研究資料」とだけ記されている。
(大学のころの……?)
美奈はそっと箱を開いた。
古いノート、書きかけの論文、鉛筆書きのスケッチ。
理容師としての父しか知らなかった彼の、もう一つの顔がそこにはあった。
ひとつのノートの背表紙に、見慣れない単語が走り書きされていた。
『リバース』
美奈は、呼吸を整えてページをめくった。
そこには、生命の再生や再構築に関する思索が綴られていた。
「死した細胞群に微細電流を用いた再活性化の可能性」
「遺伝情報の完全同一性を保持した生体形成における倫理的課題」
「記憶は物質か、再現可能か」
(……これって、一体何の研究?)
手が、かすかに震えた。
ページの端には、日付のないメモが一枚、貼られていた。
──“失われたものを、取り戻す手段ではない。
存在の連続性を信じる、ひとつの祈りだ。”
(これ……お父さんの文字)
言葉は抽象的だった。
けれど、美奈にはその意味が、直感的に伝わってきた。
誰かを、喪った。
そして、その“何か”を、どうにかして繋ぎ止めようとした。
それは、単なる研究の記録ではない。
個人的な、深い動機に突き動かされた“記憶”の断片だった。
(お父さん……何を、したの?)
そのとき、背後で床が軋む音がした。
振り返ると、シンスケが立っていた。
寝間着のまま、手には湯呑。
「……見つけたんだね」
その声には、怒りも、驚きもなかった。
「これは……何?」
「研究の……残骸だよ」
シンスケは美奈の隣に座り、ノートをひとつ手に取った。
「大学院を出て、研究者として残る道もあった。
でも、親父が倒れて、俺は帰ってきた。
……その頃には、もうこの研究を続ける理由も、なくなってた」
「この“リバース”って……私に関係あるの?」
シンスケは少しのあいだ黙った。
「まだ、話す時じゃない。
でも、美奈……お前が知ろうとしていることは、全部つながってる。
今はそれだけ、伝えておく」
曖昧な答え。
けれど、その言葉に“拒絶”はなかった。
美奈は、そっとノートを閉じた。
(いつか、すべてを話してくれる日が来る。
でも今は、この重さを、自分の中に置いておこう)
空気の匂いが変わっていた。
新しい季節が、少しずつ近づいている気がした。
『リバースメモリー』より
名もないノートのなかに
言葉が眠っていた
それは 誰かを想う力
忘れたくないという祈り
わたしは ページを閉じて
その重さを 手のひらに感じる
まだ 知らないことがある
けれど それは もう遠くない
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