第28話 不確かな証言

雨が降ると、記憶の中の風景が柔らかく滲む。


その日の午後、美奈は古い傘を差しながら、祖母の長年の友人である渡瀬すみ江の家を訪ねた。


すみ江は祖母と同じ集落に住み、亡くなる直前まで頻繁に連絡を取り合っていた。


美奈は、かすかな希望を抱いていた。

「もう一人、いたのよ」という言葉の先に、なにかを知る人がいるかもしれない──そう思ったからだった。


玄関のチャイムを押すと、すみ江がゆっくりと扉を開けた。

白髪をすっきりと結んだ小柄な姿に、美奈は一瞬祖母の面影を見た。


「まあまあ、美奈ちゃんじゃないの。よう来たねぇ」


「こんにちは。少し、お話してもいいですか?」


「ああ、いいよいいよ。中に入って」


畳敷きの居間は、古びてはいたがきちんと整えられ、静かに時間が流れていた。


湯呑みに注がれた薄い緑茶の香りが、心を静かに整えてくれる。


しばらく世間話を交わしたあと、美奈は切り出した。


「おばあちゃんのことで、少し聞きたくて……」


「うん、うん。ノリコさんのことなら、なんでも聞いて」


「“もう一人、いた”って、メモがあったんです」


すみ江の手がぴたりと止まった。


「もう一人?」


「はい。アルバムの中にも、私じゃない赤ちゃんの写真があって……」


すみ江は黙ったまま、遠くを見るように目を細めた。


「……ああ」


「何か、覚えてますか?」


「……確かなことは言えんけどねぇ」


すみ江の声は、どこか揺れていた。


「ずっと昔、あんたが生まれた頃のことよ。

病院で何か大きなことがあったと……そんな噂があったんよ」


「大きなこと、って?」


「地震があって、そのとき病院が……崩れて……。でも、犠牲者はおらんかったって言われとった。

ただね、ノリコさんが、ぽつりと、こんなこと言ったのよ」


『名前ももらえんかった子がおったんよ』


すみ江は手を重ね、静かに続けた。


「誰にも言わんで、って言われとったけど……あれは、あんたのことじゃないと思う。

だって、あんたはちゃんとここで育っとるし、家族も揃っとる。けど、その“もう一人”が誰やったのかまでは──」


「……分からないんですね」


「うん……ノリコさんも、はっきり言わんかった。

ただ、時々、窓の外を見てたんよ。ぽつんと、誰かを待ってるみたいに……」


すみ江の言葉は、詩のように滲んで、美奈の胸に染みていった。


(おばあちゃんは、誰かを──思っていた)


「その赤ちゃん、家族じゃなかったんでしょうか?」


「分からん。もしかしたら、ノリコさんの勘違いかもしれんし、ほんとうに誰かがおったのかもしれん。

でも、あの人が言ったときの顔は、ほんとうに寂しそうだったよ」


その言葉の重さが、美奈の中でゆっくりと形を持ちはじめていた。


すみ江の話は断片的で、曖昧で、まるで霧の中を歩いているようだった。


けれど、その霧の奥に、確かに“誰か”の気配がある──美奈はそう感じていた。


帰り道、小雨はまだ降り続いていた。


美奈は傘をたたみ、濡れた道をゆっくりと歩いた。


(名前ももらえんかった子──)


誰かの口から紡がれたその言葉が、胸に深く残り続けている。


(その子は、本当にいたんだ)


証拠はない。

記録もない。


けれど、祖母の記憶と、その友人の証言。

それだけで、美奈には十分だった。


(思い出してくれる人がいる限り、存在は消えない)


その夜、美奈は机に向かい、『リバースメモリー』の続きを綴った。



『リバースメモリー』より

 誰もが忘れた記憶の奥に

 ひとり 声なき命が眠っていた

 名前も与えられず

 抱かれることもなく

 それでも 誰かが覚えていた

 あたたかな視線で 静かに

 あなたは 確かにそこにいた

 私は あなたの影を追って

 いま 歩いている


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る