第25話 取り違えではなかった
美奈はノートを閉じ、深く息を吐いた。
夜の帳が下りた窓の外では、春の夜風に揺れるカーテンが淡く影を落としている。
頭の中には、昼間目にした記録の断片が、まだくすぶるように残っていた。
(取り違えじゃない──)
ずっと信じてきた疑念が、音を立てて崩れていく感覚があった。
取り違えられたわけではない。
自分は確かにこの家の子だ。
それでも、心の奥に巣食う違和感は消えない。
(じゃあ、私はいったい……)
枕元に置いた携帯電話を手に取り、震災当時のニュース記事を検索する。
犠牲者ゼロ──それは繰り返し強調された事実だった。
けれど、美奈には、その言葉がいまや薄っぺらに感じられた。
犠牲者ゼロの裏に、記録されなかった誰かがいた。
名前を持たず、家族も知らないまま消えた存在。
(私は、その子の代わりに生きている?)
胸が締めつけられる。
けれど、美奈は思う。
(違う──私は私だ)
誰かの代わりじゃない。
そう信じたくて、ノートを開き、またペンを走らせた。
だけど、言葉にならない感情が指先を止めた。
(私が生きている意味って、なんだろう)
天井を見上げる。
暗闇の中に、ぼんやりと自分の問いが漂っていく気がした。
翌朝、美奈はもう一度、家の中を探した。
家族の誰にも見つからないように、静かに、注意深く。
祖父の仏壇の引き出し。
リビングの本棚の奥。
父の書斎の隅に積まれた、古い段ボール箱──。
(何か、あるはず)
ふと、埃をかぶった封筒を見つけた。
表には何も書かれていない。
中を開くと、白黒の写真が数枚、無造作に入っていた。
小さな赤ん坊。
医療用のガーゼに包まれ、眠っている。
(この子……)
直感で分かった。
この子は──自分じゃない。
写真の裏には、かすれた鉛筆の文字があった。
『20××年3月 新生児・保護対象』
震えそうになる手を必死に抑えながら、さらに封筒を探ると、1枚のメモが出てきた。
それは父・シンスケの筆跡だった。
『失われた命を、取り戻すために』
たった一行だけ。
(──取り戻す?)
震える手でメモを握りしめ、美奈は思った。
(私の出生には、何か隠された事情がある)
それはもう、疑いようのないことだった。
取り違えではない。
誰かの子と間違えられたのではない。
もっと根本的な、命にかかわる事態が起きていた。
ふと、以前父がこぼした言葉を思い出す。
「ミナ、おまえは、宝物なんだ」
あのときは、ただの親心だと思った。
けれどいまは違う意味に聞こえる。
(私は、失われたものを埋めるために生まれた?)
いや、違う。
そんなふうに考えたら、今まで積み重ねてきたものまで壊れてしまう。
(私は、私としてここにいる)
そう強く思わなければ、今にも押し潰されそうだった。
その夜、美奈はベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
天井を見上げながら、何度も同じ問いを繰り返した。
(私は、誰?)
答えは、まだ遠い。
けれど、美奈は少しずつ、確かめる覚悟を固めていった。
『リバースメモリー』より
間違えられたのではない
取り違えられたのでもない
私は 私として
ここに生まれてきた
どんな理由があったとしても
それだけは 消えない
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