第9話 病院の名前
卒業式の前夜。まだ陽の残るうちに、美奈は市役所の資料閲覧室を訪れていた。目的は、戸籍の閲覧申請。これまで家族から説明されてきた“自分の記録”を、正式な書面で確認したかった。
職員に案内され、静かな閲覧ブースへ通される。美奈は用意された書類を一枚ずつ丁寧にめくっていった。
出生届は、たしかに地震が起きる少し前の日付で提出されていた。
(でも、それだけで“すべてが正しい”なんて、言い切ってしまっていいのだろうか?)
胸の奥に、つかえのような違和感が広がっていく。
書面には確かに名前があり、両親の署名もあった。
けれど、それは“形式”にすぎないのではないかという思いが、美奈の中に静かに根を張りはじめていた。
自宅に戻ると、家の中はどこか落ち着かない空気に包まれていた。妹のミラは明日の準備に追われ、母は式で渡す花束の包装を整えている。父の姿はまだなかった。
夜。家族が寝静まったあと、美奈はリビングでひとり、ノートパソコンを開いた。
──「◯◯産院 閉院 地震」
いくつかの古い記事が表示された。閉院の理由は老朽化と人手不足。地震との因果関係には直接的に触れられていない。
その中で、美奈の目が止まったのは、とある個人ブログの記事だった。
《あの日、避難所で新生児を抱いて泣き崩れていた男性の姿を忘れられない。報道では「被害なし」とされていたけれど、あの人の目は、確かに誰かを失った人の目だった》
(……それって、まさか)
ふと浮かんだのは父の顔だった。
穏やかで、口数の少ない父。感情をあらわにすることは滅多にない。
けれど、病院の話を母に尋ねたとき、「お父さんと一緒に聞いて」と言われたあの沈黙。
すべてを知っていながら、語られずにいた真実があるような気がした。
夜が更けたころ。玄関の鍵がまわる音がして、美奈はそっと立ち上がった。
「お父さん、少しだけ話せる?」
父は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに頷いた。
ふたりはリビングのソファに腰を下ろした。家の中は静まり返り、時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
「私、◯◯産院のこと、新聞で読んだ。NICUが壊れて、新生児が搬送されたって。避難所で保護された赤ちゃんがいたって記事も見た」
父は黙ったまま、美奈の言葉を静かに受け止めていた。
「お父さん、私……未熟児だったって聞いてたよね。でも、写真の記録には体重が3000gって書かれてて──なんだか、合わない気がして」
父はしばらく沈黙したまま、美奈を見つめていた。
「……そうだな」
「ねえ、お父さん。あのとき、病院で何があったの?」
父の目がわずかに揺れた。
「美奈。今日は……ここまでにしておこう。話さなきゃいけないことはある。ちゃんと順番を考えて、伝えるよ」
「順番?」
「そう。順番を間違えると、おまえの中にある大切なものまで壊してしまいそうなんだ」
その言葉に、美奈は不思議な静けさを覚えた。
何かを失うのではなく、何かを守ろうとしている。そんな父のまなざし。
話してくれる──そのときが来る。
それを、信じてもいい気がした。
その夜、美奈は文集ノートを開き、静かにペンを走らせた。
『リバースメモリー』より
名前は、記録されていた。
日付も、体重も、担当医の印も。
でも、それらの正しさが、私の実感とつながっているとは限らない。
記録に守られた“私”の誕生。
それは、もしかすると、誰かの手で始められた物語だったのかもしれない。
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