第5話 微妙な沈黙

卒業式を翌日に控えた週末。校舎から生徒の声が消えた静かな日だった。いつもより少しだけ静かな街の空気に、どこかぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。


美奈は朝から机に向かっていた。卒業文集の原稿を開いては閉じ、ノートに書き出しては消す作業を繰り返している。


(視線の先にいたあの女性、私は誰かと見間違えてる? それとも……)


昨日見たアルバムの中にいた“知らない誰か”が、頭から離れなかった。記憶にはないのに、どうしても無関係だと思えない。写真越しにこちらを探すような視線。その強さに、引っかかりを覚えていた。


家の中には、卒業を控えた落ち着かない空気と、春の陽射しが混ざり合っていた。母は台所で洗い物をしている。


「お母さん」


思い切って声をかけると、母は手を止めて振り向いた。


「なあに?」


「この人、誰か覚えてる? 運動会の写真なんだけど」


美奈はアルバムを開いて見せる。母は一瞬、目を凝らしたが、すぐに柔らかく笑った。


「さあ……そのときのボランティアの先生かもね。行事のときって、臨時で手伝ってくれる人も多いから」


「そっか……でも、ちょっと気になっちゃって」


「懐かしいわね、これ。美奈、楽しそう」


母の声は穏やかだった。でも、アルバムを閉じる手つきがどこか急いでいるように見えた。


(まただ……)


何かに触れようとすると、壁のようなものが立ちはだかる。そんな感覚だった。


美奈は少し間を置いて、話題を変えるように聞いてみた。


「私って、小さいとき、誰かに似てるって言われたことある?」


「似てる? 誰に?」


「ううん、特定の誰かってわけじゃないけど。親戚とか、近所の人とか」


母は一拍置いてから、「どうして?」と返してきた。


「最近、昔の写真を見返してたら……なんか、自分だけちょっと浮いて見える気がして」


「浮いてるって……美奈は美奈でしょ」


その言葉はやさしかった。でも、どこかぴしゃりと閉じられたようにも感じた。


「うん、そうなんだけど……ごめん、変なこと聞いて」


「ううん。思春期って、そういうふうに感じること、誰にでもあるから」


母は微笑んだ。けれどその笑顔は、どこか貼りついたもののようだった。


会話はそれ以上続かなかった。沈黙が降りると、母は台所へと戻っていった。その背中だけが見えていた。


リビングに取り残されたような心細さが、美奈の胸に広がっていく。


(私の問いって、そんなにおかしい?)


何気ない問いのはずだったのに、それを口にするたびに、周囲の空気が少しずつ変わっていく。


自室に戻り、アルバムを机に置いた。代わりに文集のノートを広げる。


ペンを持つ。すぐには言葉が浮かばない。


それでも、美奈は静かにページを埋めていった。



『リバースメモリー』より

 知りたいと思ったのは、ほんの小さな疑問だった。

 でも、その疑問にふれるたびに、まわりの景色がほんの少しずつ揺れていく。

 笑顔の裏の沈黙。優しさに潜む躊躇。

 本当のことは、遠くにあるんじゃなくて、すぐそばにあった。

 だからこそ、いちばん近い人ほど、答えにくくなるんだと思う。


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