第17話

 ひとしきりに笑った早坂が、ふう、と息を整える。

「村瀬はいいやつだね」

「俺は感想を求められたから、素直に答えただけさ」

「それでも、だよ」

微笑む早坂は束ねていた髪を解き、ぶんぶんと大きく頭を振る。途端、整っていた髪は大きく乱れ、それこそ起き抜けのようにぼさぼさになる。

「私はね、今でも短い方が好き」

垂れた前髪の根元に両手を差し入れると、そのまま手櫛でオールバック気味に髪をかき上げる。

「毎日の手入れが大変だし、一度乱れると今みたいにまるでまとまらない。夏は暑いし、湿気ですぐに広がるし、重いし、なにより単純に邪魔くさい」

「なんだよそれ。俺はまたてっきり好きで伸ばしているのかと――」

 言い切るより先に、自分の言葉の違和感に気付く。好きでもないのに、こんなにも髪を伸ばす理由。早坂の話を聞いた今なら、それが何なのか容易に想像がついてしまう。

「村瀬の思う通りだよ」

そして、それを察した早坂が肯定を示し、答えを口にする。

「伸ばせって言われたの。今の私には、髪を切る自由もなかった」

「どうして」

その先は言葉にならなかった。どうしてもっと早く。そう思わずにはいられない。

「さっきも言ったけど、私だって気づいていたんだよ。もはやあの人の興味は私にはなくて、求められているのは妻としての役割を果たすことだけだっていうのは。でもね、仕事を辞めて専業主婦になったうえ、その頃には彼の実家で義両親との同居も始まっていた。さらには近くに親しい友人もいなくて、学生時代の友人たちの連絡先すらわからない。そうなるとね、もはや逃げ出そうっていう発想すらできなくなるんだよ」

淡々と語る早坂に、右手の爪が食い込むほどに拳を握りしめる。

「馬鹿だな」

早坂が、ではない。馬鹿なのは、僕だ。

 早坂にはできなくても、僕からは連絡くらいいつでもできたのだ。それを、かつての早坂が望んだからと今日まで思い出しさえしなかった。むしろ、意識して忘れようとまでしていた。その方が早坂のためだからと、体のいい理由までつけて。

 そもそも、僕にだけは早坂を止めることができたのではないか? もう会えないと告げられたあの日、どうして物分かりのいい友人を演じてしまったのか? 仮に翻意させることはできなかったにしても、思いを伝えていれば、今のような結果にはなっていなかったのではないか? そんな後悔が、今更になってやってくる。

「うん、馬鹿だね」

 早坂のそれもまた、早坂自身に向けられたものだろう。その事実が、僕の両手にさらに力を込めさせる。

「でもね」

早坂がなおも続ける。

「それでも、まだ希望は残っていた。私たちはまだ夫婦だったし、私自身は既に求められていないにしても、あの人の求めるものを手にするには、妻である私の存在が不可欠だったから」

「……どういうことだ?」

 僅かな瞑目の後に早坂は視線を落とし、自身の下腹に手を当てる。

「それさえあれば、もう一度変われると信じていた。でも、何年経ってもダメでさ」

愛おしそうにそこを撫でる早坂の声が、わずかに濁る。

「神様ってさ、なんでこんなに意地悪なんだろうね?」

「え?」

聞き返した僕に、早坂が洟を啜り上げる。

「村瀬、さっき離婚のきっかけは何だったんだ、て訊いたよね?」

問いかけに頷く僕に、早坂が笑う。それでもしかし、その頬をゆっくりと雫が伝い、落ちる。

「子供、できないんだってさ、私」

震える声で言い切ると、その両目からは堰を切ったように涙が溢れ出していた。


 すすり泣く早坂を見ていることしかできなかった。

 慰めの言葉をかけることも、優しく肩を叩くこともできない。時の流れるままに無為に毎日を過ごしていただけの僕は、彼女を労わるに足る何も持ち合わせていないのだ。

 今はただ、その苦しさの数分の一ですら共有できなかったことが、堪らなく悔しい。

 ごめん、早坂。軽々に口には出せない言葉のせいで、肩を震わせることしかできない。だからせめて、好きなだけ泣いてほしい。幸いにしてここには僕しかおらず、時間もいくらでもある。泣き顔を照らし出してしまう明かりもないし、泣き声なら、波音が掻き消してくれる。

 少しだけ顔を上げ、車内からフロントウィンドウと、その奥にぼんやりと見える堤防に目をやる。数時間前、高速のランプへと滑り込んだ車内で、早坂は海に行きたいと言った。こうなることを予想しての言葉だったとは思わないが、どうして夜の海というのは、泣くにはうってつけの場所なのかもしれない。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 返事を聞かないままドアを開け、外に出る。途端、吹きさらしの海風に当てられぶるりと体が震える。浜にいた時もかなり涼しかったが、夜の深まりとともにさらに気温が下がっていたらしい。

 そんな風の音の合間に、波の音が響いている。浜は堤防の向こうのはずなのに、音そのものが風に運ばれてか、波音は僕の頭上から落ちてきて、全身を包み込む。そして、その音が響くたび、どうしてか寂寥感が募っていく。

 上着のポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出す。駐車場の一角にある公衆トイレまでは直線距離にして百メートルほどで、行って帰ってならおそらく五分以上は時間を使えるだろう。

 早坂になんと声をかけるべきなのか? 考えてはみるものの、きっとそこに正解はないのだろう。だから、考えないようにした。戻って、再び早坂の顔を見た時に、自然と出てくるものに任せよう。それが、僕らにとってはきっと一番正解に近い気がするから。

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