第15話
「あの人はね」
早坂は語りだす。あの人という代名詞を用いて。夫や旦那、ましてや固有名詞である名前で呼ぶことをせず、あの人という三人称を選んだことに、既に終わってしまった関係の距離感を感じると言ったら、果たしてそれは考えすぎだろうか。
「いつでも自分の中に明確な理想というか正解をもっていて、求めているものがすごく明瞭な人だった」
実のところ、僕は早坂が件の彼と付き合いだした頃からその存在は知っていたものの、当時を含め一度たりとも会ったことがない――どころか、知っているのは名前くらいで、その実写真すら見たことがなかった。
「出会った当時から将来の自分に対する確たるビジョンを持っていて、その日その時が楽しければそれでいい、みたいな生き方をしてきた私からしてみればその考え方は衝撃的だったし、同時に尊敬もした。社会人一年目の私から見てもあの人は抜群に仕事ができる人だったし、頼れる存在だった。そういう意味では歳は三つしか違わなかったけれど、社会人になりたてでまだ学生気分が抜けていなかった私に、単純な年齢以外で大人というものを感じさせた初めての存在だったかもしれない」
唇を湿らせるためか、早坂が上下の唇を巻き込むよう口を引き、舌でその合わせ目をなぞる。その仕草は妙に艶めかしく、思わず視線が引き付けられる。
「だから、そんなあの人が私に好意を向けてくれたことは素直に嬉しかった。私自身が、一人の大人として認められたように思ったんだ」
早坂は右手をそっと胸に当て、わずかに俯きながら目を閉じる。そんな祈りにも似た仕草を数秒続けたのち、静かに顔を上げこちらを向く。
「私があの人と付き合い始めた頃のことって、覚えてる?」
「ああ、もちろん」
返事をした僕に、早坂がふふ、と笑みを見せる。
「なんでも覚えてるんだね、村瀬は」
「なんでもってことはないさ、俺だって色々忘れていることはあるよ」
そう、なんでもということはない。ただ、こと早坂との出来事に絞ってみれば、そのほとんどが微に入り細にわたって思い出せてしまう。もう何年も、思い出すことさえしないようにしていたはずなのに。
だから、その報告をされた時のこともよく覚えている。大学最後の夏休みが終わって、後期日程が始まってすぐの頃だった。
「確かあの時はあの時で、結構会うの久しぶりだったんだよね?」
「早坂は社会人一年目だったし、俺は俺で夏まで内定もらえてなかったからな。そのあとにお互い実家に帰ったりもしてたから、それまでほとんど会えてなかったんだよな」
その間、おそらくは二、三か月。今の感覚で言えば別段に長いとは思わないその間隔も、一頃は週七で会っていた僕らからすれば、特別と呼べるほどに長い期間だった。
「駅前の飲み屋だったよね」
「一軒目はな。それで、二軒目どうするって話になった時、早坂が近所の公園に行こうって言ったんだよ」
「そうそう、そうだったね。途中のコンビニで缶チューハイしこたま買ってね」
「そんなに飲めないだろって俺は止めたんだけどな」
当時はまたいつもの気まぐれか? くらいに思っていたけれど、今になって思い返してみれば、あの時の早坂は嫌にテンションが高かった気がする。それこそ、無理矢理に明るく振舞おうとしているのではと思えるほどに。
「それで、案の定潰れてね」
「植え込みで吐いてたもんな、早坂」
「だねぇ、ほんと傍迷惑な女でしたよ、私は」
「おかげで俺は自販機まで水を買いに行くハメになってさ。普段よく見かける癖に、探すとなると意外と見つからないんだよ、自販機って」
そうして走り回った夜の住宅街を、生温く湿った夏の夜の空気を思い出す。きっと今では、あんな風に走り回れないし、息だってきっと上がってしまう――そんな思いが、自然と僕の口元に笑みとなって浮かんでくる。
「なんだかんだ優しいんだよね、村瀬って」
「そんなことないって。普通だよ、フツー」
「その普通が、私からしたら十分優しいんだよ。だからあの日、私はその優しさに甘えた」
「甘えたってそんな」はは、と笑い飛ばす。「水買ってきただけだろ?」
「ううん、そこじゃない」
早坂の否定に、僕の笑顔は真顔に引き戻される。そこじゃないのなら、一体? すぐさま疑問符が浮かぶが、おぼろげながらその先がわかる気もした。なぜって、その日の記憶にある早坂の言葉は、もう数えるほどしか残っていないからだ。
目が合ったまま過ぎる数秒の空白。それは、早坂が次の句を紡ぐにも、受け止める僕にも必要なものだったのだろう。
「あの人と付き合うことになったから、今までのように会うのはもとより、連絡もできなくなると言ったこと。それでも村瀬とは友達でいたいと言ったこと」
記憶を辿るように早坂が列挙する。そしてその声が聞こえると同時に、脳裏では当時の早坂から聞いた声が重なるようにリフレインする。一語一句、鮮明に。今の今まで思い出したことなんてなかったはずなのに、どうしてか僕の脳味噌は忘れてくれていなかったらしい。
あの日の僕は、それに「そうか」と答えた。「それならしょうがないな」とも。
僕の青さが、物分かりのいい友人を演じさせた。
僕の若さが、格好悪い男になることを拒絶した。
ありがとう、と言われ「気にすんな」の一言でその話を終わらせてしまった。
でも、今日は――じっと早坂を見つめ返し、その続きを待つ。最後まで聞く、その意思を込めて。
ありがとう。そんな呟きが聞こえた気がした。
「あの人はね、ただ付き合うだけじゃなく、その時点で結婚を前提とした交際を求めてきた。今にして思えばひどくあの人らしいやりかただと思うけど、当時の私は全然そんなこと思わなくて、もっとシンプルに自分が必要とされたことを喜んでいた。だって、必要とされるっていうことは認められるっていうことと同じだと思っていたから」
思っていた。過去形の語尾が、早坂の言葉に影を落とす。
「だから、交際の申し出を受け入れた。正直、あの時点では結婚について深く考えていなかったんだ。というより、それを想像するには、あの頃の私には何もかも足りていなかった。年齢、知識、経験、それに、覚悟もまるでなかった」
「要は、若すぎたってことか」
早坂になのか、それとも自分自身になのか。思わずそんな言葉とともに相槌を打つ。そして、早坂はどこか自嘲するように力なく笑って見せる。
「端的に言っちゃえば、きっとそういうことなんだろうね。ただ私の場合、その一言で片づけるにはちょっと重たくなりすぎちゃったけど」
そんなことない、とは言えなかった。早坂に会わなかった――会えなかった時間が重さとなって、僕の口を開かせてくれない。
「そうして付き合うとなった時に、あの人は私に対していくつかの要望を出してきた。それこそ、煙草を止めてほしい、とかね。そして、そのうちの一つが異性の友人――これがまさに村瀬のことなんだけど、その友人との交際の制限だった」
それを聞いて、ふっと肩が軽くなったような気がした。なぜって、それは僕の中でずっと引っかかっていたことだったからだ。
「やっぱり、そういうことだったんだな」
ずっと思っていた。当時の早坂の性格からして、恋人ができたからもう会うのはよそう、などと言うとは思えなかったのだ。むしろあるとすれば、早坂がそちらに夢中になるあまり自然と疎遠になりフェードアウトしていく、そんな展開だ。
わざわざ予定を合わせて、そのうえで神妙な顔つきで断りをいれてくる。そんなのおよそ早坂らしくない。
「やっぱり、てことは、気づいてたんだ?」
「いや、当時は全然」
あえてわざとらしくハンズアップの姿勢を取って首を振る。事実、当時の僕にそんな心の機微や言葉の裏を読めるほどの洞察力はなかった。
「ただ、あとになって思い返すと、らしくないなとは思っていた」
「そっか。やっぱり村瀬にはわかっちゃうんだね」
もっともそれは、文字通り後の祭りってやつだ。らしくないと思いこそすれ、それを問いただしたい早坂はもうそこにはおらず、なにより、理解のある友人を演じた手前、気軽に連絡をするわけにもいかなかった。
どうして? あの場でその一言を言えなかったことがずっと尾を引いていた。
翻っての今。僕らの答え合わせはまだ途中で、今度は僕から水を向ける。
「でもさ、それがなんで俺に甘えたことになるんだ? 俺からすれば、早坂は甘えるどころか律しているようにすら思えるんだけど」
「それは、うん、村瀬からすればそういう風に見えるのかもしれないね。でも、私からすれば、やっぱりこれは甘えなんだよ」
それは、つまり? その先の解がわからず、疑問のままに首を傾げる。そんな僕に早坂は頷くと、再び口を開く。
「あの人の要望を聞いたときにね、私は素直にそれでかまわないと思った。そもそも付き合いのある男友達っていっても数えるほどだったし、それであの人の期待に応えられるのなら、ていう思いもあった」
でもね。そこで早坂の瞳が、一際強く僕を捉える。
「村瀬は別。だって、異性とか同性とか関係なく、村瀬は私の一番の友達だったから。この先私に恋人ができて、さらには結婚することがあっても、村瀬とはずっと友達でいたいし、いられると思っていた。でも、それではあの人の望む私にはなれない」
膝に乗せられていた早坂の手が胸元へと動き、ゆっくりと握られていく。
「村瀬とはこれからも友達でいたい。そのためにはあの人を説得しないといけない。でも、そのことであの人に嫌われてしまうかもしれない。そう考えた時、私は卑しくも、村瀬に甘えることを選んだ」
握られた手がほどけ、力なくもとの膝元に戻っていく。
「村瀬ならきっと、受け入れてくれる。受け入れた上でも、私を嫌わないでいてくれる。そして、ずっと友達のままでいてくれる」
「そして、実際に俺はそれを受け入れた」
うん、と早坂はまるで少女のように頷く。
「全部、村瀬の優しさに甘えたんだよ」
後を引く吐息が消えた後に、僕も小さく息をつき「そうか」とだけ返事をする。当時の僕の思いと、早坂のそれと。
まだ若かったあの頃、お互いのことなら口になど出さずともわかると思っていた。だからこその早坂の選択だったし、僕の返事だった。だが、実際はどうだろう? まるで見事な擦れ違いだ。
「やっぱり俺は優しくなんてないよ」
だから今、自然とそんな答えが口を吐く。思いは口にしないと、しっかり伝えないと、目の前の相手にすら届かない。そんな簡単なことが今更になってわかるなんて。
「俺は度胸がなかっただけなんだ」
言いながら、それは今の自分も同じなんじゃないかと思えてくる。
「あまりに心地よかったあの関係が、何か言うことで変わってしまうのが嫌だっただけなんだ」
だから僕は、優しくなんてない。
「そっか」
その呟きは早坂が。
「この話を村瀬とすることができたら、ずっと聞いてみたいことがあったんだ」
それは、一体? 視線で投げかけた疑問符に、早坂の瞬きが答える。
「村瀬は、私のこと好きだった?」
問いかけに、息を飲む。でも、それからほんの一呼吸の後、「ああ」とすぐに返事をする。なにせ、考えるでもなく、答えは昔からずっと僕の中にあったから。
「好きだった」
決して伝えることはないだろうと思っていた。だが今、その答えは息をするような自然さで僕の口から発せられた。
「それは友人として? それとも――」
「女として、だよ」
早坂が言うより早くに答え、煙草に手を伸ばす。
当時の僕にとって、その好意がいつ友人に対するものから異性へのそれに変わったのかは定かではない。ただ、早坂に恋人ができるのであれば、それは自分でありたいと思っていた。しかしてあの日、ついぞ「好きだ」の一言を言えないばかりに、僕は今に至るまで物分かりのいい振りをすることになってしまった。
「ああ」早坂が天を仰ぐ。「馬鹿だね、私」
「いや」僕もまた同様に。「私達、だよ」
だってそうだろ? あの日の別れ際に「もう止めるから」ともらった煙草がきっかけで、僕は未だにその銘柄を吸い続けているんだから。
「大馬鹿野郎さ」
大きく吐き出した煙が車内に広がり、次いで窓の隙間から流れ出るに従い薄くなっていく。僕らの記憶も、この煙同様ぼやけ、薄くなってくれていたら楽だったのに――思わずそんなことを考えずにはいられなかった。
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