第11話

 早坂の口から零れ落ちた台詞を、僕は拾うことができなかった。

すぐにでも「そんなことない」と言いたい僕を、今日までの僕らが過ごしてきた空白の十年の重さが押しとどめる。その重さは、軽々な言葉などでは押しのけられない。

「村瀬、煙草ってまだある?」

「悪い、さっき切れた」

「そっか」

お互いに前を向いたままで短く言葉を交わす。もしかしたらと今一度胸ポケットから煙草の箱を取り出し中身を確認するも、当然ながら空である。

「それじゃ村瀬、はい」

再び呼ばれて早坂を見ると、そこには僕に向けて煙草を差し出す右手があった。まさかの光景に思わず戸惑うも、それと同時にひどく懐かしさも感じる。

「あれ? いらない?」

早く取れとでもいうように早坂は箱を振り、僕は小さく笑ってから左手を伸ばす。

「いや、ありがたく頂くよ」

そうしてもらった一本をそのまま咥えると、すぐに火を点ける。見れば、隣の早坂も僕同様煙草を咥え、私にも火を、と右手を伸ばしている。僕は無言のままライターを手渡してから、最初の一口を吸い、吐き出す。そして、火を点け終えた早坂からライターを受け取ると、そのままに早坂を見つめる。

「村瀬、なんで? て顔してる」

ゆっくりと煙を吐き出した早坂が、そう言ってどこか得意げに笑っている。

「最初に飲み物買うのにコンビニ寄ったでしょ? その時に一箱買っておいたんだ。ただ久しぶりだったから、つい自分が昔吸っていたやつを買っちゃったんだけどね」

村瀬がメンソールになってて良かったよ。そう言ってからに早坂はもう一度煙草を吸い込み、空に向けてゆっくりと吐き出す。その仕草はまるで昔の早坂そのままで、先のように咳き込むこともない。

 でも、そうじゃない。僕が聞きたいのはいつ、どこで買ったかではない。どうして買ったか、なのだ。だって早坂は――。

「煙草、辞めてたんじゃないのか?」

「うん」

短い返事。だがすぐに「でもね」と続ける。

「それも今日まで。長かった禁煙は、今日で終わりにしちゃうんだ。それに、村瀬と話をするなら、やっぱりこれがないとなんか格好付かないしね」

言いながら早坂は指先に挟んだ煙草をひらひらと振って示す。そのぼんやりと赤熱する先端が、わずかな残像を伴って指先に遊んでいる。それから、僕も自身が持つ煙草の先端に目を落とし、しばし見つめ、考える。確かに僕らにとってのこれはいつだってなくてはならないもので、かつての僕らがいつも一緒にいられたのは、お互いが喫煙者だったからというのも一つの理由ではあるのだと思う。

 でも、本当にそれだけだろうか? 目を向けた先では早坂が屈託なく笑い、まるであの頃に戻ったのかと錯覚してしまいそうになる。その錯覚はひどく甘い誘惑であり、花に群れる蜜蜂のように、誘われるままに倒錯してしまいたくなる。

「本当にいいのか?」

 それでも、訊いた。というよりも、フラッシュバックする僕の記憶が、それを訊かずにはいられなかった。だって早坂は、なんとなくで禁煙をしたわけじゃないと、僕は知っているのだから。

「いいんだよ」

笑みを収めた早坂が静かに言う。それから吸い終えた煙草をくしゃくしゃと揉み消してからに空き缶に捨てると、もう一度笑みを浮かべる。ただ、先のそれとは違う、どこか自嘲を称えた口元で。

「だって、辞める理由がなくなっちゃったから」

つまり、それは――。

「いいんだよ」

出かかった僕の言葉を遮るように、早坂が言葉を繰り返す。二の句を継げなくなった僕はただただ言葉を飲みこみ、代わって生まれた静寂を埋めるように波音だけが響いていた。


 それから僕と早坂は、お互いにもう一本ずつ煙草を吸った。その間の僕らに会話はなく、ただただ静かに波音を聞いていた。

 ふいに早坂が立ち上がると「んん」と大きく伸びをする。

「ずっと同じ姿勢でいたから腰が痛くなってきちゃった」

照れ笑いを浮かべながらそう言うと、両手を腰に当ててググっと逸らす。

「俺らもお互い三十超えたし、歳だな」

同様に僕も立ち上がり、首をぐるぐると大きく巡らすと関節がポキポキ音をたて、なるほど、寒さもあってかかなり凝り固まっていたらしい。

「だいぶ冷えたし、飲み物でも買いに行くか? 確か少し行くと自販機あったはずだから」

「うーん、飲み物は別にいいかな。ほら、トイレ近くなりそうだし。ただ、私も一度車には戻りたいかも。かなり冷えちゃったし」

そんなやり取りの後、僕らは連れだって元来た方へと歩き出す。駐車場への階段を上り切ると、数台いたはずの車は一台もなく、端の駐車スペースに僕の車だけが忘れ去られたようにポツンと停まっている。

「他の車、全然いなくなっちゃったね」

「だな。まあ時間も時間だし、こんなもんだろ」

 僕が先に車に乗り込み、早坂もそれに続く。エアコンを効かせるためにエンジンをかけると、ドア越しにもわずかに聞こえていた波音はほとんど聞こえなくなり、代わりに規則的なエンジン音がわずかな振動とともに伝わってくる。

「これ、灰皿な」

普段は運転席側のドリンクホルダーに収めてあるそれを、センターコンソールのホルダーに移し替える。すると、早坂は早坂で煙草の箱を取り出すと、同じくセンターコンソールの小物入れに置く。

「村瀬もそれ、勝手に吸ってもらって大丈夫だから」

「ああ、助かるよ」

そんなやり取りをしつつも、僕らはどちらもその煙草に手を伸ばすことはせず、途切れた会話のままに沈黙が続く。

 しばらくすると暖まりだしたエンジンに伴ってエアコンが温風を勢いよく吐き出し始め、急速に車内を温めていく。結果として生まれた外との温度差によって窓に結露が生じ、数分の後にはすっかりと外が見えないほどに白くなる。

「なにも見えなくなっちゃったね」

まるで摺りガラスのようなそれに、早坂が言う。

「こうしていると、自分が今どこにいるのかわからなくなりそう」

「運転してきた身としては、そこは忘れないでいてほしいな」

わざとらしくおどけて嫌味を言うと、早坂がクスリと笑う。

「そうでした。村瀬さんには感謝感謝でございます」

「嘘つけ。思ってもいないくせに」

 煙草に手を伸ばし、一本を抜き取り、箱を戻す。

「窓、少し開けるぞ?」

返事を待たずに運転席側の窓を少しだけ開け、それから煙草に火を点ける。ゆっくりと吸ってから顔を外に向けると、今しがた開けた窓の隙間めがけて、一息に吐き出す。

「本当に感謝してるんだよ?」

「え?」

声に目を向けると、早坂もまた煙草を抜き取る。

「ライター、いい?」

僕がそれを渡すと、そのまま早坂も煙草に火を点ける。

吐き出す煙が早坂に重なり、焦点がずれたファインダーのように輪郭線がぼやける。それはほんの数秒の後に窓の隙間から抜けていくのだが、そのわずか数秒間、早坂の存在そのものが希薄になったように錯覚してしまう。

「こんな形で、村瀬の地元に来ることになるなんて、思ってもいなかったよ」

気のせいか、先ほどよりも沈んだ表情で早坂が言う。

「俺だって、まさかだよ。我ながらよく走ったもんだ」

「ちなみに、大体どのくらい?」

ちらと覗いたメーター上のトリップ表示は、今日だけで約二百五十キロを走ったことを示している。

「ざっと二百五十キロってとこかな?」

「そんなに?」

早坂がわかりやすく目を見開いて驚いている。ただそれはほんの数秒のことで、すぐにうつむき気味に前に向き直り、神妙な面持ちに変わっていく。

「昔からそうだけど、ほんと村瀬には私のわがままにつき合わせちゃってるよね」

「今更何言ってんだよ? それに、昔の俺はあれで結構楽しんでたんだぞ? ああやって馬鹿やってる感じが、むしろなんか青春ぽいなって」

「そうなの? ああ、うん。でもそうか、青春か。確かにあれは、青春だったのかもね」

「かもじゃないさ、立派に青春してたんだよ。少なくとも俺にとってはね」

 どこかこそばゆい台詞ではあるが、これは僕の本音である。それまでさして目立つ存在でもなく、この地元福島でありふれた生活を送っていた僕にとって、進学を機に都内に出てきてから、正確にいえば早坂と出会った大学一年の夏以降の数年間が、間違いなく僕の青春だった。

「じゃあ、あの頃の村瀬も楽しんでいてくれたんだね」

村瀬は、ではなく、村瀬も。たった一文字の助詞の選択が無性に嬉しくなる。だが、早坂の次の一言にハッとする。

「なら、今日は?」

 間髪を入れずに告げられた疑問符には、返事を窮してしまう。楽しい。そう答えるのは簡単だ。ただ、今日の僕の感情は、少なくともその一言で言い表せられてしまうほど単純なものではない。

「早坂は?」

そんなことを考えていたら、自然と言葉が出た。

「早坂は今日、楽しんでいるのか?」

果たしてその答えは、沈黙だった。

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