季節は巡る
Ep.15 no side
季節は巡り、凍えるような冬の空気が少しずつ春の色を帯び始めた、三月の初め。春樹はどこか弾むような足取りで、玄弥の住むマンションへと向かっていた。大学の推薦入試も無事に終わり、春からは都内の大学へ通うことが決まっている。
あの雨の日以来、二人の時間は、穏やかに、そして確かな温もりをもって積み重ねられてきた。
『今日の夕方、うちに来い』
昨日、玄弥から春樹に送られてきたのは、用件も書かれていない、そんな短いメッセージだけだった。何かあったのだろうか、と少しだけ首を傾げながらも、玄弥に会えるというだけで春樹の心は自然と軽くなる。
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。中から現れた玄弥は、いつものリラックスした部屋着姿で、「おう」と短く春樹を招き入れた。
だが、部屋に足を踏み入れた春樹は、その光景に目を丸くした。リビングの中央、いつもはローテーブルが置かれている場所に、大きな赤い布が敷かれ、その上にはまだ組み立てられていない、金屏風や雛壇のパーツが並べられている。
「これって……ひなまつりの飾り?」
「ああ。姪っ子のやつなんだがな、今年から俺が預かることになって」
玄弥は少し照れくさそうに頭を掻きながら言った。その姿は数年前に初めてこの飾り付けを見た日と、少しも変わらないように春樹の目には見えた。
「でも、どうして僕を?」
春樹が素朴な疑問を口にすると、玄弥は一瞬、視線を彷徨わせた。
「……いや、なんつーか……あの時を、もう一回、ちゃんとやり直してみたかった、っつーか……」
しどろもどろになりながらも、そう言った玄弥の耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、春樹は見逃さなかった。その不器用な言葉に込められた想いが嬉しくて、春樹も思わず笑顔になる。
二人で説明書を広げ、雛壇を組み立てていく。大きな体で小さな部品を慎重に扱う玄弥と、その隣でてきぱきと人形や小道具を手渡す春樹。まるで失われた時間を取り戻すかのように、穏やかで、満ち足りた空気に包まれていた。
玄弥は黙々と作業する春樹の横顔を盗み見た。昔の儚さはそのままに、少しだけ精悍になった輪郭。少年と大人の狭間。今しかない、この時間が永遠に続けばいいと、柄にもなくそう思っていた。
「なあ、春樹」
五人囃子を並べながら、玄弥がふと口を開いた。
「大学、決まってよかったな。将来とか、もう考えてんのか?」
「将来、ですか……」
春樹は三人官女の持つ小道具をそっと飾りながら、少しだけ遠い目をした。
「玄弥さんは日本を代表するすごい選手で……本当に尊敬してます。でも僕は……僕には、そんな特別な才能なんて何もないから。何になれるのか、まだ全然……」
自己肯定感の低さが滲み出たような春樹の声。玄弥は持っていた太鼓をそっと置くと、春樹の頭に大きな手のひらを、ぽん、と乗せた。
「何言ってんだ。お前は、そのままでいいんだよ」
ぶっきらぼうだが、春樹にとっては温かい言葉。
「お前には人の痛みが分かる優しさがある。誰かの心を、ちゃんと見ようとする強さがある。それはどんな才能よりも、ずっと価値があるもんだと俺は思うぞ」
玄弥のまっすぐな視線と言葉に、春樹の胸が熱くなる。
その時、春樹の脳裏に、ふとある人物の顔が思い浮かんだ。自分を最初に、この人の元へと導いてくれた、あの人。
――白木先生。
もし、あの時、ラグビーの試合のチケットを譲ってくれなかったら、玄弥にもう一度会う勇気も出なかったかもしれない。そして、生物の準備室で自分の性に関する悩みを聞いてもらったこと、そんな自分を強く励ましてもらったことを思い出す。
――そうだ。僕も、あんなふうに。
「……僕、学校の先生になりたいです」
春樹にとって、それはほとんど無意識に口からこぼれ出た言葉だった。だが口にした瞬間、心の中のもやもやが、すうっと晴れていくのを感じていた。
自分の気持ちのあり方に悩んだり、一人で苦しんだりしている生徒の、ほんの少しでも力になりたい。白木先生のように、そんな生徒に寄り添える大人になりたい。春樹はそう思ったのだ。
「学校の先生? 急にどうしたんだよ」
玄弥が驚いたように春樹の顔を覗き込む。その晴れやかな表情に、玄弥は目を細めた。
「うん。今、決めました」
春樹は、笑顔のままで頷いた。
「なんでだよ。さっきまで、何もないって言ってたじゃねえか。何かきっかけでもあったのか?」
玄弥が不思議そうに聞くが、春樹は悪戯っぽく笑うだけだった。
「それは秘密です」
「はあ? なんだよ、それ!」
玄弥が少しだけ拗ねたように唇を尖らせる。厳めしい顔に浮かべられた、その子供っぽい表情が可愛くて、春樹は思わず、くすくすと笑った。
「秘密にするなんて、ひどいじゃねえか」
玄弥はそう言うと、春樹の隣にぐっと顔を近づけた。この距離感が今となっては当たり前で、お互いに心地よく感じるようになっていた。
「……教えてくれるまで、こうしてやる」
「わっ……近いですよ、玄弥さん」
「教えねえお前が悪い」
そんな言い合いをしながら、二人の視線が絡み合う。柔らかな春の日差しが、寄り添う二人を優しく照らし出していた。
雛壇ではたくさんの人形たちが、静かに二人を見つめている。三人官女は少しだけ微笑んでいるようにも見えた。五人囃子は今にも楽しげな音色を奏で始めそうだ。
そして一番高い場所。金色に輝く屏風の前で寄り添うのは、穏やかな表情のお内裏様とお雛様だ。
数年ぶり、二度目のひなまつり。ようやく隣に並ぶことができた二人の未来を、静かに、そして温かく見守っているかのようだった。
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