クソ・デウス

うなな

第1話 ハルト編プロローグ ――白い日々――

 白い街は、いつも静かだった。

 音は、許可されたものしか存在しない。

 鳥は空を飛ばず、木々は人工樹脂でできている。風は吹かず、空は乳白色のドームで覆われ、天候は管理AIが完璧に制御していた。


 少年・ハルトが住むのは、第二衛生区域「ノエマⅡ」――完全管理下にある中層居住区である。

 生活空間は無菌構造で、気温は常に23.2度。酸素濃度、湿度、浮遊粒子量すべてが最適化され、皮膚への刺激や臭気は一切存在しない。


 朝、アラームは鳴らない。

 神経に直接信号が送られ、自然と目が覚める。


 ベッドを離れると、自動で床が光る。足音も反響しない素材で、歩く感覚さえ希薄だった。


 洗顔、歯磨き、排泄――かつての日課とされていたものは、すでにこの世界にはない。

 ハルトは毎朝、栄養処置用のナノポッドを口に含み、それで食事と水分、全身の代謝調整を済ませる。


 彼は口を動かさず、味を知らない。

 胃袋の中では、機械のようにエネルギーが変換されていく。


 学校までの通学路には、色がない。

 白衣に近い制服を着た少年少女たちが、無言で歩く。誰一人、話さない。笑わない。

 それが「礼儀」であり、「浄化された社会」の規範であるからだ。


 「会話」は、許可された場で、許可された内容のみが可能だ。


「昨夜の神託、視聴したか?」

「クソ・デウス第三柱、髪型を少しだけ変えたらしい」

「神性値、昨日より0.03上がった。完璧に近づいているな」


 彼らの関心は、常に“神”に向けられている。

 完璧で排泄をしない、美しい神々。

 音も匂いも排泄もない「理想の器」――クソ・デウス。


 ハルトはそれを聞きながら、目を伏せる。


 彼だけは、神々のことを見つめられない。

 ――いや、違う。


 彼は知ってしまったのだ。「神は本当に、完璧なのか?」という疑念を。


 胸の奥、喉の奥、目には見えない違和感が、彼を静かに蝕んでいた。


 授業では「沈黙の道徳」や「流出否定論」などが教えられる。

 かつて人類が“汚れた時代”にどれほど罪深かったかということを、映像資料なしに、言葉だけで教え込まれる。


 講師の言葉はいつもこうだ。


「排泄とは、獣の業である。

 清き器とは、無を生む者。

 流れるものを断て、音なき者となれ」


 誰も疑問を挟まない。

 だがハルトは、ふとした瞬間に思ってしまう。


 ――じゃあ、俺たちは、何かを失ってないか?


 放課後、ハルトは人通りの少ない側路に立ち寄る。

 そこは廃棄予定の旧住居区域で、白くなりきれない“くすんだ灰色”が所々に残る異端の空間だった。


 彼はそこで、毎日ひとり、しゃがみ込む。


 ポケットから、白く欠けた陶片を取り出す。


 それは、祖父が死ぬ直前に彼へ託したものだ。

 用途も由来も不明な破片――しかし裏面には、古い文字があった。


「TOTO」


 意味はわからない。だが、その破片だけは、なぜかほんの少しだけ“におう”気がするのだ。


 ハルトは小さく呟いた。


「……これは、本当に“神に遠いもの”なのか?」


 誰にも聞かれぬよう、音を殺して。


 だが、その問いこそが――

 彼を、世界の裏側へと導く最初の一歩となるのだった。



 その夜、ハルトは祖父の遺品が収められた保管箱を静かに開いた。

 規則では一切の私物保持は禁止されているが、祖父は密かにそれを地下の壁裏に隠していたのだ。


 埃をかぶった銀色の筐体。

 滑らかで丸みを帯びた、どこか優しげなフォルム。

 まるで人を座らせるために生まれたような機械。


「便座……なのか?」


 ハルトは囁く。決して教科書には載っていない単語。

 彼は手を伸ばし、ボタンのような凹みに指をかけた。


 ――カチッ。


 乾いた音がして、機械が微かに震える。

 そして、低く、湿ったような電子音が響いた。


『……認証完了。記憶装置“レトロス”、再稼働……』


 ハルトの背筋が凍る。

 けれど、耳を塞ごうとは思わなかった。


『お前は……“排泄”という言葉を知ってしまったのか』


「……教える気があるなら、教えてくれよ」


 少年は震える声で言った。


「俺は……ずっと、においを探してる」


 白い街で、静かな反乱が始まろうとしていた。


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