第35話

 けたたましいクラクションの音、ひっきりなしに行き交う車の走行音も聞こえない。

 都心に聳え立つタワーマンションの三十八階、吉良圭吾の長年住み慣れた部屋は、その主の座を明け渡そうとしていた。


 朝日が大きな窓から斜めに差し込み、がらんとしたリビングの床に埃の舞う軌跡を映し出す。

 昨日までそこにあったはずのソファも、ローテーブルも、テレビボードも、今はもうない。

 壁には、家具が置かれていた跡が日焼けの違いとなってうっすらと残り、まるで失われた記憶の輪郭のようだ。


「はい、そちらの段ボール、最後になります!お疲れ様でした!」


「ありがとうございました!大変助かりました」


 屈強な体躯に揃いの作業着をまとった引っ越し業者のリーダーが、額の汗を逞しい腕で拭いながら圭吾に声をかけた。

 彼らの背後では、最後の段ボール箱が慎重に台車に乗せられ、玄関へと運ばれていく。

 その動きには無駄がなく、熟練の技が光る。


 段ボールが擦れる音、業者たちの短い指示の声が、どこか寂寥感の漂う部屋に最後の活気を注いでいた。


 圭吾は、空っぽになった部屋を見渡し、言いようのない感慨に胸を詰まらせた。


 だが、感傷に浸る間もなく、隣で腕を組み、不満げに頬を膨らませている少女――エンヒが、圭吾の袖をおもむろに、しかし力強く引いた。


「けいご……」


 その声には、いつもの快活さはなく、どこか切実な響きが籠っている。

 大きな緋色の瞳は、潤んでいるというよりは、空腹による切実な訴えを物語っていた。


「腹が……腹が、もう限界じゃ……。力が抜け落ちて、人の形も保てなくなりそうじゃ……」


 大袈裟な、と圭吾は思うが、龍の化身である彼女のエネルギー消費量は人間の比ではない。


 朝から引っ越しの準備と立ち会いで何も口にしていなかったのだから、無理もないだろう。


 実際、エンヒの顔色は心なしか普段より青白いように見えた。


 圭吾は、段ボールの山も消え、業者たちの姿も見えなくなった室内を改めて見渡し、苦笑いを浮かべた。


 キッチンは完全に機能停止状態。

 コンロにはカバーがかけられ、シンクも綺麗に磨き上げられているが、それは「もうここでは何もするな」という無言の圧力を放っている。


「そうだよな、朝から何も食べてないもんな。すまんすまん。よし、じゃあ美味いラーメンでも食いに行くか。引っ越し前のラーメンだ。景気づけに、とびきりのやつを奢るぞ」


「らーめん! あの、長くしなやかな麺を、熱く濃厚な汁に浸して食すという、魅惑の料理か!」


 途端に、エンヒの顔にぱあっと生気が戻った。

 緋色の瞳は期待にきらきらと輝き、先ほどまでの空腹の苦しみなど微塵も感じさせない。

 単純というか、現金というか、しかしそれがエンヒの魅力でもある。


「うむ!とびきり美味いのを頼むぞ、けいご! 私の腹は、宇宙の如く広大じゃからのう!」


 圭吾は小さく笑い、財布とスマートフォンをジーンズのポケットにねじ込むと、エンヒを伴って、がらんどうになったタワーマンションの部屋を後にした。

 目指すは、以前からエンヒを一度連れて行きたいと考えていた、ラーメン激戦区・神田にその名を轟かせる名店「神田ラーメン ワイズマン」だ。


 地下鉄の駅へと向かう道すがら、エンヒは周囲の景色に興味津々な様子で視線を巡らせていた。

 何度見ても都心の洗練されたビル群も、彼女にとってはただの「灰色の箱の集まり」でしかないが、それでも人間の営みの細々とした部分には興味を惹かれるらしい。


 電車に乗り込むと、規則的な揺れと走行音に最初は少し戸惑っていたものの、すぐに窓の外を流れる景色に夢中になった。

 もっとも、地下区間に入ると「む、また穴の中か。人間というのは、どうしてこう窮屈な場所が好きなのじゃ」と不満げに呟いていた。


 神田駅の改札を抜けると、空気が一変した。

 それは、圭吾が慣れ親しんだタワーマンション周辺のクールでスタイリッシュな雰囲気とは全く異なる、雑多で、猥雑で、しかしどこか人間臭いエネルギーに満ちたものだった。


 古い雑居ビルと真新しいオフィスビルが肩を寄せ合うように建ち並び、大小様々な看板が、これでもかと自己主張を繰り返している。


 道行く人々の服装も、歩く速さも、表情も、どこか切迫感と活気が入り混じっているように感じられた。


 エンヒは、その混沌とした街の空気に圧倒されるかと思いきや、むしろ水を得た魚のように目を輝かせ始めた。


「おお、けいご!ここは何やら活気に満ちておるな!人々の顔つきも、先ほどの場所とは違うて、もっと……こう、剥き出しな感じがするぞ!」


「まあ、神田は昔から色々な人が集まる街だからな」


 圭吾がそう答えるそばから、エンヒはあちこちに視線を飛ばし、その度に新たな発見をしては感嘆の声を上げた。


「あそこは何じゃ?『無料』と大きく書かれておるが、何が無料なのじゃ? 私も何か案内してもらおうかのう!」


 エンヒが無邪気に指差したのは、ピンク色のネオンが妖しく光る無料案内所だった。


 圭吾は背中に冷や汗が流れるのを感じ、慌ててエンヒの腕を掴む。


「あ、いや、あれはだな……その、大人のための、道に迷った時の相談所みたいなもので、エンヒにはまだ早いというか、必要ない場所だ!そう、必要ない!」


「ふむ?そうなのか?では、あちらの娘たちはどうじゃ?随分と奇妙な…しかし、ひらひらとして愛らしい衣をまとっておるではないか!あれも龍の衣の一種か?それとも、何かの儀式の装束か?」


 今度は、駅前でチラシを配っていたメイド服姿の女の子たちにエンヒの興味がロックオンされた。

 彼女たちのフリルやレースがふんだんに使われた衣装は、確かにエンヒの故郷の装束とは似ても似つかない。


「あ、あれは……ええと、そう、特別な……お祭りの時に着る衣装みたいなものだ!うん、きっとそうだ!ほら、ラーメン屋はこっちだぞ!早くしないと、お前の広大な腹が満たされないぞ!」


 圭吾は額に脂汗を滲ませながら、半ば強引にエンヒの注意を逸らし、目的の店へと足を速めた。


「祭りか……見てみたいものじゃのう」


 エンヒは呟きながらも、素直に圭吾の後をついてくる。


 その無垢な好奇心は、時として圭吾を窮地に陥れるが、同時に彼の日常に予測不可能な楽しさをもたらしてもいた。


 やがて、何本かの路地を抜け、飲食店の看板がひしめく一角に、ひときわ存在感を放つ「神田ラーメン ワイズマン」の黒い看板が見えてきた。


 店の前には、すでに十数人の行列ができており、その最後尾からは、濃厚で食欲を猛烈に刺激する豚骨と醤油の香りが、まるで生き物のように漂ってくる。

 その香りを嗅いだ瞬間、エンヒの足がぴたりと止まり、鼻をくんくんとさせた。


「けいご……この匂い……もしや……!」


「ああ、そうだ。ここが今日の目的地だ」


 圭吾はどこか誇らしげに言い、券売機へと向かった。

 液晶パネルに並ぶメニューは豊富で、トッピングも多彩だ。

 圭吾は一番人気である、のり卵ラーメンとライスのボタンを押した。

 エンヒは券売機のボタンが光ったり、食券が出てきたりする様に興味津々だったが、圭吾は手慣れた様子で操作を終え、四枚の食券を手に再び行列に加わった。


 待っている間も、エンヒは落ち着きがなかった。

 店の入り口から時折漏れ聞こえてくる威勢の良い店員の声や、食器のぶつかる音、そして何よりも強烈なラーメンの香りに、期待で胸を膨らませているのが手に取るように分かった。


「まだかのう? 私の腹の虫が、もう大合唱を始めておるぞ」


 時折、圭吾の顔を見上げては訴える。

 その度に圭吾は「もうすぐだよ」と宥めるのだった。


「次でお待ちの二名様、カウンター席へどうぞー!」


 店員の張りのある声に呼ばれ、圭吾とエンヒはついに店内へと足を踏み入れた。

 店内は、外から見た印象よりも奥に長く、しかし横幅は狭い造りだった。

 照明はやや暗め、だがカウンター席はすべて埋まっており、その人気ぶりが窺える。


 席はカウンターのみで、十数席が厨房を囲むように配置されていた。


 そして何よりも、店内に一歩踏み入れた瞬間、全身を包み込むような濃厚な豚骨醤油の香りと、もうもうと立ち込める麺の湯気に圧倒された。

 それは、空腹の者にとっては抗いがたい魔力を持つ空間だった。


 カウンターの向こうの厨房では、白い割烹着に身を包んだ店主らしき厳つい顔つきの男性が、大きな寸胴鍋からスープを掬い、湯気の立ち上る麺をリズミカルに湯切りしている。


 その一連の動きは洗練されており、まるで何かの演武を見ているかのようだ。

 まな板の上では、若い店員が巨大なチャーシューの塊をテンポ良くスライスしていく。

 その隣には、「ワイズマンオリジナル麺」と黒字で書かれた麺箱が高く積み上げられていた。


 案内されたのは、カウンターのちょうど中央あたりの席だった。


 隣の客は、一心不乱にラーメンをすすっており、その集中力は凄まじい。


 圭吾とエンヒが席に着き、食券をカウンターの上に置くと、店員が威勢よく声をかけて水を運んできた。


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