第6話 声が灯る境界
ケント紙に咲いた〈記名花壇〉は、夜灯の揺らぎを吸い込んだまま金粉を零し続けている。だがブラック・パビリオンの市場板に表示されていた “FLOWER—ACQUISITION” の赤文字は、灯花が描いた逆根と蒼真の拍動が焼き切った時点で完全に停止し、ログは灰色の「休止」へと書き換えられていた。それでも外洋データ船〈アルタイル〉の作戦室には緊張の膜が張り詰めている。気を抜けば、冴子結城が帳簿の奥底から再び蔓を伸ばして来るのを誰もが感じ取っていた。
◆ ◆ ◆
朝霧灯花は花輪の余白に伏せ、震える手で鉛筆の芯を研ぎ直していた。
「呼び名を取り返せても、消えた時間は戻らないんだね」
芯を削る微音が、夜明け前の静けさにやけに重く溶け込む。
二階堂律はタブレットを脇へ置き、紙屑のように乾いた声で応えた。
「それでも呼ばれた名は、世界に再び線を引く。妹でも娘でもなく 記号 だった犠牲者が、“在った” と確かに証明される」
彼の掌には、姉・夏海の心拍ログを示す虹のパッチが薄く脈動している。もう冴子の帳簿が奪うことは出来ない。
蒼真は胸ポケットの万年筆を握り、空になったインク窓を見つめる。鼓動署名に酷使された芯はまだ微かな余熱を帯び、ときおり緑のLEDを反射した。
——守るとは、奪われた分だけ自分の余白を削り出す行為だ。
◆ ◆ ◆
その静寂を破るように、天井スピーカーが作動し、IFRB本部の実務官の無機質な声が響いた。
「改竄市場との衝突リスク上昇を確認。花壇プロジェクトは試験段階を超過。直ちに現場行動を凍結せよ」
灯花は顔を上げた。瞳に宿った光が怒りを超えて悲しみに滲む。
「声を守るための線が、実験扱い……?」
律はまっすぐ天井のスピーカーを睨み返した。
「損失係数だけで切り捨てられるなら、創設者の言葉は何だった。名こそ運命の根だと、あの人は――」
通信が遮断され、室内に低いファンの唸りだけが戻る。蒼真はためらいなく言った。
「行こう。凍結命令が出る前に、本営の心臓を止める」
◆ ◆ ◆
百花がゴーグル三基と臍帯ケーブルを机に並べる。
「三点リンクに改造した。拍動を輪にして循環させれば、一人が追い詰められても他の二人が引き戻せる」
蒼真⇄灯花⇄律⇄蒼真――拍動の輪廻だ。
灯花はケント紙に新たな花弁を描き、自分たち三人の名前をその裏へ潜らせた。
「線が切れたら帰ってこられない。でも切らせない。私が根を、蒼真くんが芯を、律先輩が葉脈を描く」
全員がギアを被る。LED は三色の拍動で同期し、欠損は十六・一%のまま落ち着く。
◆ ◆ ◆
視界が反転し、灰色の草原に降り立つ。先ほどの温室は廃墟と化し、黒い帳簿AIの残骸が瓦礫のように散らばっている。しかし地平の向こう、濃墨の渦がゆっくり膨らんでいた。
「冴子自身が来る……」灯花が震える声を漏らす。
渦の中心に現れたのは黒曜のドーム。天蓋を覆う液状インクが外向きに脈打ち、無数の呼び名を逆綴りで泳がせている。
ドーム内部は音も光も吸う闇。真ん中に冴子が立ち、真血ペンの紅が脈動を映している。
「あなたたちの花壇は綺麗。でも私は “声帯そのもの” を帳簿の根にするわ。声が掠れれば、花も根も枯れる」
彼女が一筆振ると、三人それぞれの心拍が映像化され、ペンの紅インクに吸い寄せられる。臍帯リレーが軋み、LED が橙へ傾く。
蒼真は空芯モードを起動し、拍動を光粒へ変換して逆流を防ぐ。律は姉の名を花弁で護り、灯花は闇の床へ新たな花壇線を描く。
だが紅インクは一旦飲み込んだ拍動を“偽名”へ変換し、返す刃で突き刺してくる。
〈二階堂律〉が〈立花律〉へ、〈朝霧灯花〉が〈灯霞アサギリ〉へ――名の骨格が歪む音がした。
灯花が叫ぶ。「私の名は灯“火”じゃない。灯“花”だ!」
彼女は自分の花弁を引き裂き、花粉状の光にして紅インクへ投げつけた。光粉はインクを薄紅へ変え、偽名を焼き払い、元の〈灯花〉を浮かび上がらせる。
蒼真は即座にその光粉を拾い、自分と律の名の周囲へ点描で花粉層を描き込んだ。LED が黄緑へ戻り、欠損十六・二%。
冴子は一歩退き、真血ペンを自らの胸へ向けた。
「なら最後は、私自身の声を根にする」
黒いドームの中心で血のような声が滲む。彼女の名『結城冴子』がペンに吸われ、インク窓を満たしていく。
律が苦鳴を上げながら前へ出た。
「その声は俺たちが守る場所の外側だ。名を賭けるなら、ここへ入って来い!」
彼が花壇線を踏み越えて右手を広げると、臍帯リンクが一瞬光を失う。しかし次の拍で灯花が逆根へ血を垂らし、蒼真が空芯から光を放つ。
花壇線が巨大な花弁に変形し、冴子を中心へ招く結界と化した。
ペンが踏み入れる瞬間、花弁が閉じ、名の光粉が渦を巻き上げる。紅インクは外へ逃げ場を失い、冴子自身の名を咲かせる花柱に絡まって凍りついた。
闇が裂け、黒室が崩れる音は無かった。ただ呼び名を捉えた光粉が、新しい声のように静かに灯った。
◆ ◆ ◆
作戦室に帰還すると、ケント紙の花壇はさらに深い根を張り、中央に小さな新芽──冴子 の名が芽吹くように記されていた。
灯花は肩で息をつき、震える笑みを蒼真へ向けた。
「声は掠れなかった。根があれば、花はまた灯るんだね」
万年筆のLEDは黄緑のまま確かな拍動を刻む。欠損率は十六・二%。物語の余白には、まだ書ける行が残っていた。
◆ ◆ ◆
(第四章 第6話 了)
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