第3話 座標ゼロの街

 連絡艇の甲板で朝焼けを眺めるうち、ぼく――一瀬蒼真のポケットに沈めた端末が微かな震動を返した。差出人欄も題もない暗号メール。開けば、濁ったグラデーション上に黒い歯車とただ一行——Welcome to /NULL-GRID/。

 海上の風はしょっぱい匂いを運びながら、どこか金属の冷気を帯びている。〈IX〉の本営が宛先にしたのは、物理座標を捨てた仮想都市。冴子が言い残した“空白そのもの”の正体だ。


◆ ◆ ◆


 その夜、外洋データ中継船〈アルタイル〉のサーバルーム。

 二階堂律が差し出したヘッドギアは、頭蓋全体を包むような白銀の枠を持ち、視神経に触れる部分がわずかに脈動していた。

 「NULL-GRIDへの入口は《フォーマット・ゲート》と呼ばれる量子カプセルだ。接続した瞬間、外界の位置情報も記憶座標も初期化される。向こうへ戻る術は“リンクを自前で書き直す”以外ない」

 朝霧灯花は深呼吸を一つし、スケッチブックを防水スリーブに収めてうなずく。

 「線を引けば必ず『場所』が生まれる。なら、帰還路だって描けるはず」


 ギアを装着すると、視界は一拍で闇に沈み、次いでスノーノイズめいた白い水平線が現れた。座標表示──[0,0,0]。XYZ軸は霧の向こうで溶け、上下も前後もなく、ぼくの鼓動だけが重力を示す唯一の手がかりだ。胸ポケットの万年筆はデジタルオブジェとして同期し、LEDは淡い黄緑で脈動している。欠損率十五・六%。液体のないペンは、それでもここにある。


◆ ◆ ◆


 一歩踏み出すと、世界が反転した。六角柱が連なる街路、鉱石のように輝く高層塔、黒曜の空に浮かぶ無数のタグ値。ヘキサシティ——NULL-GRIDの表層区画。塔の壁面を流れる虹色の文字列は、読者の呼気ビットや好意タグを株価ティッカーのように更新し続けている。

 灯花は足元の石畳を確かめ、鉛筆を走らせる。線が浮遊する光粒になり、空中でゆらゆらと漂った。

 「描くたび、重みのない地面に重力が宿る……この街は『行動』そのものが地形を決めるみたい」


 塔の根元のキオスクには〈真血ペン〉のアイコンと赤いカウントダウン。“開札二〇分前”。冴子が握った試作機を指名買いする予約が、まるで雨粒のように表示欄へ降り積もっていた。


◆ ◆ ◆


 塔の外壁に手を触れると、虹色の情報が熱を持った砂のように指先へ吸い込まれた。

 「気をつけろ。そこは“シフト・トリガ”だ」律の声がヘッドギアの骨伝導で届く。「触れた者の座標軸を読み取り、下層――つまり本当の中枢へ落とす罠だ」

 回避するには、自分で帰還路を付け足すしかない。ぼくは生体共鳴スタイラスを呼び出し、塔壁へ0と1のドットを撃ち込む。

 《Shift trig ≠ WriterAxis ∴ LinkBack(β) 》

 LEDが橙へ僅かに揺れ、欠損十五・九%。塔壁の虹が二分して一方が白糸となり、街路の虚空へ垂れ下がった。帰還リンクだ。


 「今のうち!」灯花が叫ぶ。スケッチブックのページを翻し、塔の影を群青の筆致で縫い止める。影は生き物のようにうねり、白糸の根元を支えた。


 ぼくは白糸を握り、彼女の手を引く。瞬間、足元が吸い込まれた。


◆ ◆ ◆


 視界を満たすのは闇より深い黒。壁も天井も奥行きも無いのに、心音の反響だけが空洞の存在を教える。ブラック・ボリューム。

 その中心で冴子結城が石のような静寂を纏って立っていた。手にした真血ペンの窓で、赤い液体が脈を打つ。

 「ここは座標ゼロ。読む行為も書く行為も、境目はないわ」

 彼女がペンで虚空をひとなぞりすると、ぼくの心拍波形が闇の壁に映し出され、LEDは深橙へ跳ねた。欠損十七・一%——赤域目前。


 灯花は震える手で床へ鉛筆を走らせる。線が光粒になり、呼気のリズムを六角格子へ変えて壁を覆った。

 「息を吸えば格子が膨らみ、吐けば縮む。呼吸を固定できない地形よ!」

 ぼくは胸にスタイラスを当て、心拍をリズムへ変えた。

 《beat(t) → −ΔGrid》

 鼓動が六角格子を震わせ、冴子の赤い弧へぶつかる。赤は反転し、闇の壁に裂け目を穿つ。そこに白糸の帰還リンクが淡く浮いた。


 冴子が呻くように笑った。

 「帰るという選択肢、まだ残しているのね。でも座標ゼロは壊せないわ。書き手が読む限り、何度でも呼び出される」

 ぼくは応えず、灯花の手首を掴み、裂け目へ跳ぶ。 


◆ ◆ ◆


 目を開けば〈アルタイル〉のサーバルーム。空調ファンのざわめきが耳を満たし、重力が膝を折らせた。LEDは黄緑、欠損十六・三%。

 ヘッドギアを外すと、胸骨を叩く鼓動がまだ速い。灯花はスケッチブックを開き、ページに残った六角格子が微かに光を吐くのを見つめた。

 「まだ生きてる。読者が読めば、また光になる……」


 律は端末を閉じ、息をついた。

 「座標ゼロで冴子が使った心拍の弧は“半端エントロピー”。本営に残る最終鍵はあと一つだ。次は“物語の終了フラグ”そのものを売り物にするはず」


 ぼくはポケットの万年筆を握る。液体はない。けれど鼓動はまだ、ペン軸の奥で次の行を打とうと跳ねている。

 ページは閉じていない――虚空にすら地形を描く余白がある限り、物語は終わらない。


◆ ◆ ◆


(第四章 第3話 了)

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