第11話 双子ページの影

 金曜の夕暮れが校舎の窓に逆光を注ぎ、誰もいない美術準備室は薄紅の水槽のように静まっていた。

 朝霧灯花はキャンバスを立て、新品のサファイアブルーのチューブを絞る。一瀬蒼真は隣の机でホログラムを展開し、二階堂律から受け取った〈迎撃署名フォーマット〉を確認する。余白は残り三%。万年筆の LED は黄緑のまま脈を打つが、たまに橙が混ざるたびに胸が冷える。


◆ ◆ ◆


「描くモチーフは、蒼真くんの“原風景”」

 灯花がハケに群青を含ませながらつぶやいた。

「君の存在が揺れても消えない、いちばん深い場所を絵で固定する。ページを覗いた帳簿がそこに書き込もうとしたら、自分ごと凍る仕組み」


 蒼真は窓辺で目を閉じる。記憶を紐解くと、母と最後に行った水族館の光景が浮かぶ。天井まで続くアクアトンネル、数え切れないマイワシの群れ。

「……描ける?」

 灯花は頷き、下絵の鉛筆を走らせる。彼女の手元でアクリルが淡く混ざり、群青の海がキャンバスに生まれた。


 律の端末が低い警告音を鳴らす。

「冴子の双子ページが動いた。ターゲットは“記憶の束”……時刻指定が“十八時十五分”」

 壁の時計は十八時を五分過ぎたところ。迎撃署名を組み込んだイラストを【.pagex】形式で書き出し、僕の万年筆で署名トークンを押印するまで残り十分。


◆ ◆ ◆


 慧斗が美術室へ飛び込む。

「北校舎の掲示板、また灰色化してます! 写真部のスライドショーにアクセスした生徒が急に自分の思い出を語れなくなって……」

 双子ページが小規模テストを始めた証拠。冴子は本番前に“記憶削り”を校内で試している。


 灯花の筆が速度を上げ、水槽トンネルの奥に光の帯を描く。反射した銀の群れがキャンバスに舞い、最前面に泳ぐ一匹が蒼真の幼少期の姿に見えた。

「あと二分!」

 律がファイルをUSBにコピーし、ホログラムで[署名待機]を点滅させる。蒼真は万年筆を取り、欠損のざらつく指先でペン先をUSBへ押し当てた。


 最後の署名は墨色ではなく、母の声と同じやわらかな水色で発光する。

《所有者:一瀬蒼真—迎撃キー確定》


 LED が一瞬赤に跳ね、すぐ黄緑で安定した。欠損率は二二・一%。わずかに増えたが許容範囲。


◆ ◆ ◆


 校内放送が割れ、悲鳴とざわめきが交ざる。「北校舎三階、映像教室で投影停止——」

 律が端末を切り替え顔をしかめる。「双子ページが本格稼働した。目撃した生徒の“思い出アルバム”が真っ白になり始めている」


 蒼真と灯花は迎撃ファイルのUSBを抱え、薄暗い廊下を走った。北校舎へ続く連絡渡り廊下の窓から、夕陽が落ち、空が深い藍色へ変わる。風は強まっているが、吹くたび胸が軽くなる。あの水族館の海風を思い出すからだ。


 映像教室の前は教師が規制線を張り、生徒を退避させていた。白川詠斗が肩を落とし、「写真が……全部ノイズに」と呟いている。

 警備員を説得して中へ入ると、スクリーンいっぱいに冴子の帳簿が投影され、ページ左下に双子ページの赤い歯車が回っていた。


 灯花はPC卓にUSBを差し、迎撃ファイルを読み込ませる。「スクリーンを切り替えるよ!」

 蒼真はホログラムを展開し、万年筆で最後の承認クリックを押す。《迎撃シークエンスON》。


 スクリーンの海が群青に染まり、光るトンネルが歯車を飲み込んでいく。ガラス越しに海を覗く冴子のシルエットが映り、ページが凍る音を残して停止した。赤い歯車は粉塵になって散り、投影は漆黒へフェードアウト。


◆ ◆ ◆


 悪寒が抜け、教室の蛍光灯が明るさを取り戻した。詠斗が急いでカメラのメモリーを確認し、歓声を上げる。「戻ってる! 写真、全部!」

 律の端末が成功を示す青いバーを表示する。「双子ページ、迎撃完了。冴子、先手を封じられたな」


 だが安堵の息が消える前に、校内の非常ランプが赤く点滅した。放送設備が歪んだ音を吐き、屋上から雷鳴のような衝撃波。

 律が眉をひそめる。「帳簿本体を切り離し、自分だけ因果外へ跳んだか……いや、逆だ。〈空白〉を奪いに来るつもりだ!」


 蒼真の胸ポケットが灼けるように熱くなり、万年筆が唸り声をあげる。

〈所有者識別 強制奪取プロトコル開始〉


 冴子が最後の手段——“書き手を消して所有権を初期化する”コマンドを走らせた。周囲の壁が灰に崩れ、教室の縁が水のように揺らぎ始める。


「蒼真くん!」

 灯花が万年筆に手を重ねた瞬間、二人の掌を白い光が包み込む。欠損率が一気に二四%へ跳ね上がり、蒼真の視界がモノクロになる。


「一緒に——書こう!」

「もう余白が……!」

「私の余白、まだある! 副筆者じゃなく、半分ずつでいい!」


 灯花の叫びが胸を貫く。ペン先が欠片のように震えながら、ページのない空間へ向いた。ふたりの記憶の海が重なり、トンネルの海中を黄金のマイワシが渦巻く幻が現れる。


 視界が崩れていく中、蒼真は最後の判断を下す。

「……灯花、ありがとう。じゃあ一緒に書くのは、これだ」


 ペン先から滲む光で、二人は同時に空白へ刻む。


《もし書き手と見守る者が同じ景色を忘れない限り、帳簿は二度とその記憶に干渉できない》


 万年筆が悲鳴のような金属音を立て、白い光柱が天井を貫いた。歯車紋が粉々に砕け、教室の壁が元の質感を取り戻す。リミッター LED は真紅を越えて純白に反転し、欠損率の数値は表示すら出来ない高域で揺らいだ。


◆ ◆ ◆


 気づけば、風の音しか聞こえない屋上へ立っていた。冴子が帳簿を抱え、髪を乱したまま膝をついている。ページは焼け焦げ、金縁は灰色に鈍っていた。


「……たった一行で双子ページまで消すなんて。やっぱり嫌いになれないわ、その無謀」


 彼女が立ち上がる。蒼真の姿は半透明で、灯花が肩を支えていなければ風に散ってしまいそうだ。冴子は帳簿を差し出した。


「返すわ。今のあなたには、もう必要ないでしょう?」


「帳簿が……?」


「空白になった。私も書き手でいられない。だけどあなたはまだ“書ける”」


 蒼真は震える手で帳簿を受け取った。何ページも真っ白なまま、最後に一行だけ残っている。


《この帳簿は、二人で読む物語の余白に変わる》


 冴子が笑った。「あなたたちがそう書いたのよ。どう生かすかは自由」


 風が吹き、桜祭の提灯が遠くで揺れた。冴子の黒コートは夜の端へ溶け、そこにはもう誰もいなかった。


◆ ◆ ◆


 日が沈み、グラウンドの夜桜が再点灯する。

 蒼真の欠損率は数分おきに推移し、十九→十八→十七と緩やかに下がっていく。灯花はスケッチブックに新しい海を描き、慧斗は撮り戻した写真で「奇跡の瞬間展」を企画すると言い出した。


 蒼真は帳簿を静かに開き、一ページ目の余白にペン先を当てる。だがインクは出ない。もう、命令を書き換える道具ではなく「物語」を綴る紙へ変わったらしい。


「最初の一行は?」と灯花が問う。

 蒼真はペンを置き、微笑んだ。


「まだ書かない。僕たちが“読みたい”物語が決まるまで、この余白は取っておくよ」


 夜桜の花弁が足元で弾み、遥か頭上で一本の花火が裂けた。白い閃光はもう世界を塗り替える脅威ではなく、ただの祝砲のように胸を温めた。


(第二章 第十一話 了)

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