第9話 夜桜祭と最後の一行

 金曜。文化祭当日の校舎は朝から飾り付けの紙花がはじけ、甘い匂いが廊下に渦を巻いていた。教室の黒板アートは早くも観客で埋まり、ステージ音響のリハーサルが体育館から震動を漏らす。


 僕――一瀬蒼真は開会式のざわめきの中、胸ポケットをそっと押さえた。因果リミッターのLEDは深い赤。欠損率は二一・九%から回復せず、残り余白は三・一。本当にあと“一行”しか書けない。いや、書いてもいいのか、書かなければいけない場面が来るのか──判断が遅れれば世界が冴子に上書きされる。


 朝霧灯花は模擬店の準備を済ませると、僕の手を取り体育館裏へ連れ出した。吹き抜けの渡り廊下で、春より少し濃い風が髪を揺らす。


「蒼真くん、顔色。本当に三%しか……?」


「大丈夫と言えば嘘になるけど、ここまできたら走り切るしかない」


 灯花は震える指で僕の袖を掴んだ。「もし書くなら、必ず私が隣にいる。副筆者じゃなくても、名前を呼んで貰えれば絶対に忘れないから」


 その言葉だけで胸が熱くなる。彼女の名を三度、唇の奥で反芻してから頷いた。


◆ ◆ ◆


 正午。校舎西端のブレーカーに取り付けた擬似バイパスは正常作動を続けている。昼休みのピークを迎えても電圧に乱れはなく「停電行」は沈黙していた。


 ところが一三時四二分。生徒会放送の合間に奇妙なハウリングが混ざった。百花と音響担当が慌てて調整しているその隙に、グラウンド脇の移動遊園地エリアで悲鳴。巨大バルーン門の固定ワイヤが突然弾け、風船アーチが観客ごと倒れかける。幸い軽傷で済んだが、現場を囲うカラーテープに黒インクが滲み消えた。


「隠匿署名を局地的に撃ってきた」


 律の無線がノイズ交じりに届く。「冴子は停電を諦め、事故の連鎖で“閲覧者ゼロ”を狙う気だ。観客を校舎外へ誘導してパンフを読ませないつもりだ」


 ステージ袖にいた慧斗も連絡をくれた。「体育館の出入口、消防点検で一時閉鎖だって。パンフ配布が中断してる!」


 心臓が鳴る。パンフが読まれなければ三層バリアは発動しない。僕はリミッターの赤い光を見つめる。ここで書けば限界を超える。けれど書かなければ冴子の“閲覧者ゼロ”が成立する──。


◆ ◆ ◆


 午後二時。校庭中央の桜ステージでは「夜桜祭ライブ」のサウンドチェック。黒いコートが観客の後方に紛れているのを見つけた。結城冴子。帳簿を胸に抱え、人混みを切り裂くように進む。その進路上では、屋台の油鍋が火柱を上げかけたり、看板が風に飛ばされたり、小さな混乱が次々に起こっていた。


 冴子がステージ正面の照明タワーを見上げ、ページを開く。もし舞台照明が落下しでもしたら、人々は一斉に避難し「閲覧者ゼロ」になるだろう。灯花が僕の腕を震わせる。


「もう時間がない……!」


「書く」


 万年筆を抜いた瞬間、視界の端が白く霞んだ。欠損率が一気に二四%台へ跳ね上がる予兆。指先が透けてもペンは落ちない。最後の一行、どう使う──?


 冴子の帳簿が金の光を溢れさせ、照明タワーのボルトが音もなく外れ始めた。その時、背後から百花が駆け寄る。手にはポスターで周知したQRコードを刷った小型カード束。


「避難を呼びかけながら、これを配る! “読む”動作さえ起こればバリアは動くんでしょう?」


 僕は閃いた。書くべきは“パンフ”ではなく“読む”という行為そのものだ。万年筆が脈動し、レベル2圧縮の最後の許可を求める。


〈限界三・一% 警告〉


「承認」


 白光が渦になり、僕は空中に一行を走らせた。


《もし文化祭会場で一人でも“物語を読む”動作をとれば、冴子の全副筆者行は読者の好意へ反転し、欠損は正値で上書きされる》


 ペン先が爆ぜ、リミッターが赤を越えて白光へ。視界が塩が弾けるようにノイズで満ちる。身体の輪郭が音もなく崩れ始めたが、書き上げた一行が光の網となって校内へ走った。


◆ ◆ ◆


 百花と生徒会はマイクを握り「安全のために“夜桜祭パンフ”を携帯し、裏表紙のQRをスキャンしてください!」と呼びかけた。混乱の中でもスマホを向ける生徒が次々に現れ、閲覧カウントは急上昇。冴子の帳簿はページをめくるたび粉雪のように黒インクを散らし、書き込んだ副筆者行が好意タグへ書き換わっていく。


 照明タワーのボルトが再び締まり、火柱は瞬時に霧消した。冴子は帳簿を抱きしめ、何か呟きながら後退する。ページは白紙を連ね、彼女の髪が風に乱れた。


「まさか“読む”という抽象に逃げるとは……。けれど余白は尽きたはず」


 確かに僕の視界は途切れ途切れで、腕はガラスのように透けている。だが胸ポケットのリミッターは赤から黄緑へ奇跡的に色を戻し始めた。好意のタグが観客から流れ込み、欠損値は二二……二一……二〇%と僅かに下降していく。


 灯花が僕の手を掴み、その温度が輪郭を呼び戻す。「見える? まだ、いる?」

「……ああ」


 冴子は唇を噛み、帳簿を閉じた。「今日は引くわ。でも覚えておいて、一瀬蒼真。“読む世界”には終わりがない。あなたがページを閉じた瞬間、余白は再び開くのだから」


 次の瞬間、彼女の姿は歯車紋の閃光とともにステージ脇から消えた。


◆ ◆ ◆


 夜。グラウンドの満開のライトアップ桜の下で、僕らはようやく腰を下ろした。灯花、百花、慧斗、律。みんな顔も服も埃と汗まみれだけど、笑っていた。


 リミッターの色は橙と黄緑の境界。欠損率一九・八%——ぎりぎり赤域を回避した。最後の一行は“書くたび三行負荷”規定を破ったはずなのに、観客の好意タグが上書きしてくれたらしい。


 灯花が夜桜の下で、指先に花びらを乗せ僕の目を覗く。「蒼真くん。まだ、名前、覚えてる?」

「もちろん。灯花。灯花」

 その音が世界と僕を縫い直す結び目になり、胸の奥で小さな光が脈打った。


 遠くで打ち上げられた一本の花火。白い尾を引き、夜空に咲いた花弁は、万年筆の白光と同じ色に見えた。


(第二章 第九話 了)

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