第2話 いじめの消えた朝
ホームルーム開始五分前、教室には奇妙なざわめきが漂っていた。
机間を流れる空気は昨日までの重苦しい湿度を失い、窓から差す五月の陽光が埃の粒すら清潔に見せている。つい昨夜まで「触ると呪われる」とまで言われていた一年生――雨宮慧斗の席を、今は誰も冷笑で囲まない。むしろクラスメイトたちは目を伏せ、言い淀みながら順番に謝罪の言葉を差し出していた。
慧斗は戸惑い切った表情で、謝罪の列に小さく頭を下げ続ける。その必死な動きが痛々しいほどで、僕は思わず席を立った。いじめ加害者のひとりだったバスケ部の佐川がこちらを一瞥し、逃げるように立ち去る。
やがて慧斗が僕の元へ駆け寄ってきた。
「せ、先輩……朝礼前に呼び止められて、アイツら全員土下座して……俺、どうしたらいいか……!」
小刻みに揺れる声。頬に貼った絆創膏の下で赤黒い擦過傷が乾ききらず痛むのか、彼は片手で頬を庇いながら泣き笑いのような顔を浮かべた。
「とりあえず深呼吸しろ。謝罪を受け入れるかどうかは、今すぐ決めなくていい」
僕が背を軽く叩くと、慧斗は「はい……!」と涙声で頷いた。
胸ポケットの万年筆がわずかに震える。皮越しに感じる微振動は、鼓動を誘う毒のリズムだ。
〈一行の効果、確認。次の願いを入力せよ〉
甘やかな囁きが鼓膜を掠め、思考の裏側で蠢く。――もう一行書けば、さらなる奇跡を起こせる。頭では危険を理解しても、五指はインクのない筆先を恋しく思った。
◆ ◆ ◆
ホームルームが始まり、担任が出席を取り始める。「一瀬」の名を呼ばれた瞬間、僕ははっきり「はい」と答えた。だが担任は不思議そうに眉を寄せ、出席簿へ視線を落としたきり首をかしげる。
「……一瀬は欠席か?」
隣席の学級委員が慌てて手を挙げ、「先生、いますよ」と指さしてくれるまで、出席簿に〇は入らなかった。まるで僕の声が教師に届かなかったかのように。
背筋が冷える。クラスの数人が「返事聞こえなかった?」とざわつき、僕自身も喉を押さえて咳払いをした。消えかけた気配――それが一瞬だけ現実味を帯びた。
◆ ◆ ◆
昼休み。屋上へ続く階段踊り場で、コンビニパンの袋を開いた。風が切り立ったコンクリ壁にぶつかり、湿った制服の背を冷やす。
万年筆は内ポケットで脈動し、キャップがわずかに緩む。
そこで駆け上がる足音。振り向くと朝霧灯花が立っていた。絵具染みのついたハンカチを握り、額には汗が光る。
「蒼真くん……雨宮くんのこと、本当に偶然なの?」
ストレートな問いに息を呑む。
「偶然だよ。俺は何も――」
「嘘つくとき、右手の親指をこすり合わせる癖が出るんだよね」
灯花は柔らかい声で追い打ちをかける。いつもは陽だまりの匂いがする彼女の笑顔が、今日は薄い雲をかぶっていた。
ポケットの震えが強まり、万年筆が灯花の方へ傾く。
〈書け。彼女の疑念を“忘却”で塗り潰せ〉
一瞬、指先がペン軸へ伸びた――が、思いとどまる。
「俺は……何もしてない」
短い否定を口にした瞬間、灯花の肩の力がわずかに抜けた。彼女は目を伏せ、ため息を吐く。
「……なら信じる。でも、もし辛くなったら頼って。私、蒼真くんに消えてほしくないから」
その言葉が胸に刺さり、同時に恐怖が脊髄を駆ける。――消える? 灯花は直感で何かを察しているのか。彼女が階段を下る足音が小さくなるまで、僕は息をひそめて立ち尽くした。
◆ ◆ ◆
五時間目の美術。新校舎のアトリエは油彩と溶剤の匂いが濃く、窓から射す斜陽が絵具を鈍く照らしていた。
灯花のイーゼルには、桜と夜景を重ねた幻想的な大判キャンバス。筆が置くたび、花弁がキャンバス上で咲きついえ、夜の群青に溶ける。彼女は集中すると周囲の音を忘れる癖があり、僕は少し離れた席で鉛筆デッサンを進めながら様子を眺めた。
――その時、廊下のスピーカーが耳障りなチャイムを鳴らす。
『美術室近くで火災報知器が作動! 付近の生徒は……』
放送が終わるより早く、焦げた匂いが鼻を刺した。
灯花がキャンバスへ駆け寄る。絵具皿の下でウエスがくすぶり、まだ乾いていない溶剤が炎を孕んで舌を伸ばそうとしている。
僕は立ち上がり、一歩踏み出した――胸ポケットが灼けるほど熱くなり、万年筆が震えを跳ね上げた。
〈救いたいなら書け。“炎は風に吹かれ、ただの灰になる”――一行で済む〉
床に散らばったスケッチブック、揺れる火。選び取る猶予は、燃え移る紙よりも薄い。
書けば灯花を救える。しかしまた、自分が世界から剥がれる――。
鼓膜を打つナイフのような囁きと、炎の爆ぜる音が重なった。右手が万年筆を掴む、インクのないペン先が光を宿す。
僕の決断を待たず、炎はスカートの裾を舐める距離まで伸びた。灯花が息を呑む悲鳴を上げる。
(第2話 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます