第13話 近づく距離、触れられない想い

 レコーディング本番は、意外なほど静かに始まった。Link Zero公式のスタジオサーバーに接続し、それぞれが専用の収録環境にログイン。映像は使わず、音声データと最低限のリアルタイムモニタリングのみ。画面には、仮想マイクと波形モニター、そして楽曲のガイドラインが表示されている。響夜の前には、燈のアバターがいない。けれど、彼女の声が——そこにいるかのように、モニターの奥で響いていた。


《もしも今、君が名前を呼んだら
 私はちゃんと、笑えるかな》


 最初のフレーズは燈のソロだった。何度も合わせてきた音のはずなのに、本番になるとその響きが違って聞こえる。柔らかくて、でもどこか脆くて、まるで心の揺れそのものが波形になったような歌声だった。


 続くのは、響夜の番だ。


《伝えたいのに 伝わらないままで
 胸の奥 言葉が滲んでゆく》


 声が震えないように、丁寧に丁寧に言葉を乗せる。けれど、その緊張は彼の表情に現れていた。見えないはずの観客がそこにいるようで、見られているようで、息が少し浅くなる。


「……響夜くん、大丈夫?」


 収録の合間、凪月が通話に割って入る。


「声、少し緊張してる。今のテイク、もう一回録り直してみましょうか」


「……はい」


 自分でもわかっていた。さっきのテイクは、どこか守りに入った声だった。もう一度、マイクに向き合う。


“今度こそ、ちゃんと届けたい”


 そう思って歌ったそのテイクは、不思議なほど自然だった。声がすっと抜けて、感情が引っかからずに流れていく。


(……ああ、これでいい)


 録音を終えたとき、響夜は自分でも驚くほどに、肩の力が抜けていることに気づいた。


 その夜。録音が終わった安堵感もあって、響夜は久しぶりに個人配信を行った。雑談メインのゆるい配信。BGMはなく、ただ声だけが流れる静かな空間。


《この前のデュエット、ほんとによかった》
《響夜くんのためらいのある歌、すごくリアルだった》
《燈ちゃんとの声の相性、反則……!》


 コメントの一つ一つが温かくて、うれしくて、でもどこか照れくさかった。


「……ありがとう。なんか、ちゃんと届いてたみたいで、ホッとしてます」


 そんな言葉を紡ぎながら、ふと、燈の名前がコメント欄に浮かんだ。


《響夜くんの“わからないまま”の歌、ほんとによかった。知らない恋を、ちゃんと一緒に歌えてうれしかった》


 それを見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。彼女は、ずっと隣にいるような距離感で寄り添ってくれていた。けれど、自分はその手をちゃんと掴めていただろうか?


(——燈に、ちゃんと向き合えていたか?)


 翌日。Link Zeroのグループチャットが、いつになく静かだった。沙羅は脚本の締切に追われ、咲夜はコラボ準備で多忙。ルイは連日のイベント運営で疲れ果て、珍しく返信が遅れていた。そんな中、燈からも連絡がこなかった。


「……あれ?」


 響夜は、何気なく彼女との個人チャットを開いてみる。最後のメッセージは、レコーディング当日の「お疲れさまっ」だった。そこから、既読がつかない。普段なら、何かしら一言でもスタンプでも返してくるのに——


 まるで、ふっと“光”が消えたような感覚。


(……燈?)


 少しずつ、胸の奥がざわめき始めた。何かあったのか。それとも、自分が何かしてしまったのか。けれど、その理由はわからない。今はただ、彼女がここにいないことだけが、鮮やかに胸に残っていた。

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