第40話:凱旋と職人の狂喜

 第35層からの帰還は、行きよりも遥かに足取りが軽かった。

 もちろん肉体的な疲労は極限に達している。魔力も枯渇寸前だ。だが、目的を達成したという充実感が、鉛のように重い身体を突き動かしていた。


 転移ゲートをくぐり、ダンジョン庁のロビーに戻ってきた瞬間、空調の効いた涼しい空気が肌を包んだ。灼熱地獄に数時間いた身体には、それがまるで冷水のように心地よい。


「……戻りましたね、地上に」


 隣を歩く水瀬雫が、ほう、と深く息を吐いた。

 その顔は煤で汚れ、蒼いマントもあちこち焦げ付いているが、その表情は晴れやかだった。胸元には、兄の遺品であるスカーフとロストログが入ったポーチを、大切そうに抱えている。


 俺たちの姿を認めたロビーの冒険者たちが、ぎょっとしたように道を開けた。

 無理もない。俺が着ている黒竜のコートはブレスの余波で半分炭化し、ボロボロだ。全身から硝煙と焦げた肉の匂い、そして濃厚な高ランクモンスターの血の匂いを漂わせているのだから。


「おい、あれ……まさか、生きて帰ってきたのか?」

「第35層に行ったって噂だったが……その格好、ただの偵察じゃなさそうだぞ」


 ざわめきが広がる中、スーツ姿の男たちが早足で近づいてきた。黒崎の部下たちだ。


「日向様、水瀬様。黒崎部長がお待ちです。至急、応接室へ」


「……報告は手短に頼むぞ。俺にはまだ、行くところがある」


 俺は部下の男にそう告げ、足早に歩き出した。

 報告よりも、休息よりも、優先すべきことがある。

 俺の背中のリュックに入っている、断熱ボックス。その中身を、然るべき場所へ届けなければならない。


◇ ◇ ◇


 アイアンルートの応接室で待っていた黒崎は、俺たちがテーブルに置いた「戦果」のリストを見て、絶句した。


「……変異種の鱗、牙、爪。そして……心臓、か」


 彼は断熱ボックスの蓋を僅かに開け、すぐに閉じた。漏れ出した熱気だけで、室温が一気に数度上がった気がした。


「信じられん。Aランクパーティが束になっても全滅した相手を、たった二人で……」


 黒崎は額の汗を拭い、俺と雫を交互に見た。その目には、畏怖と、そして賭けに勝った男の興奮が宿っていた。


「約束通り、この素材の所有権は全て君にある。そして、他ギルドからの干渉も私が全力で防ごう。……だが、これほどの物をどうするつもりだ? 市場に流せば、国家予算規模の金になるぞ」


「売るつもりはない。使うんだ」


 俺は即答した。


「『古の炉』を再起動させる。そして、深層へ挑むための装備を作る」


 俺の言葉に、黒崎は数秒間沈黙し、やがて不敵に笑った。


「……底なしか、君の欲は。いいだろう。好きなようにやれ。我々は君たちの影となり、盾となろう」


 簡単な報告と、今後のバックアップの確約を取り付けると、俺たちは早々にダンジョン庁を後にした。


◇ ◇ ◇


 日はすでに落ち、街は夜の帳に包まれていた。

 俺と雫は、タクシーを乗り継ぎ、街外れの工業地帯にある一軒の古びた店へと向かった。

 中古装備屋『源三商店』。

 シャッターは半分閉まっていたが、奥からは微かに鉄を打つ音が響いている。


「開いてるか、親父」


 俺がシャッターをくぐり、ドアを開けると、カウンターの奥で源三がパイプをふかしていた。


「……チッ、また来やがったか。今日はもう店仕舞いだ」


 源三は不機嫌そうに新聞を広げていたが、俺たちのボロボロの姿を見ると、その目が鋭く細められた。


「……おいおい、随分と派手に焦げてんな。黒竜のコートが台無しじゃねえか。俺の傑作を粗末に扱いあがって」


 悪態をつきながらも、その視線は俺が背負っているリュックに釘付けになっていた。長年の職人の勘が、そこに「とんでもないもの」が入っていることを嗅ぎ取ったのだろう。


「文句は後だ。約束のブツを持ってきた」


 俺はカウンターの上に、重いリュックをドンと置いた。

 そして、中から厳重に封印された断熱ボックスを取り出す。


「……マジかよ」


 源三がゴクリと喉を鳴らした。

 俺は封印術式を解除し、ゆっくりと蓋を開けた。


 ブワッ、と熱波が店内に広がった。

 ボックスの中で脈打つ、赤黒い塊。まるでマグマをそのまま凝縮したかのような、圧倒的な魔力と熱量の奔流。

 変異種・火竜の心臓だ。


「な、なん、だ……こりゃあ……」


 源三の口からパイプが落ちた。

 彼は震える手でカウンターに身を乗り出し、まるで神を見るような目で心臓を見つめた。


「こいつは……ただの火竜ドレイクじゃねえ……。古竜エンシェントの血を引く、純血に近い変異種か……!? こんな、こんなデタラメな素材……!」


 源三の顔が、紅潮していく。それは熱気のせいではない。生涯一度出会えるかどうかの至高の素材を前にした、職人としての法悦だ。


「鱗と牙もある。これを使えば、何が作れる?」


 俺がさらに素材が入った袋を置くと、源三は狂ったように笑い出した。


「ハハッ! ハハハハハッ! 何が作れるだと!? 馬鹿野郎! 神殺しの武器だって作れらぁ!!」


 彼はカウンターを飛び越え、俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫った。


「いいか兄ちゃん! こいつは俺がやる! 誰にも触らせねえ! 俺の全技術、いや、魂を削ってでも、こいつを形にしてみせる!」


「その意気だ。……だが、こいつを加工するには、この店の炉じゃ火力不足だろ?」


 俺の指摘に、源三はピタリと止まり、悔しそうに顔を歪めた。


「……ああ、そうだ。こいつの融点は数千度だ。現代の魔導炉じゃ、表面を炙るのが関の山だ。せっかくの素材も、加工できなきゃただの石ころだ……クソッ!」


 彼は髪をかきむしり、地団駄を踏んだ。最高の食材を前にして、調理器具がない料理人の絶望だ。


「だから、場所を変える」


 俺は静かに告げた。


「俺たちが発見した『古の炉』がある。第20層の隠し神殿だ。あそこなら、こいつを燃料にして、古代の火力を再現できる」


「……あ?」


 源三がぽかんと口を開けた。


「第20層……? 隠し神殿……? お前、何を言って……」


「説明は後だ。準備しろ、親父。あんたをそこへ連れて行く」


 俺はニヤリと笑った。


「最高の素材と、最高の設備を用意した。あとは、最高の腕があればいい。……できるか?」


 その挑発に、源三の目から迷いが消えた。代わりに宿ったのは、ギラギラとした職人の業火だ。


「……愚問だ。俺を誰だと思ってやがる」


 彼は作業着の袖をまくり上げ、煤けた顔で獰猛に笑った。


「面白ぇ。地獄の底だろうが天国の果てだろうが、行ってやらぁ! その『古の炉』とやらで、世界中が腰抜かすようなモン、叩き上げてやるよ!」


 隣で見ていた雫が、呆れたように、しかし嬉しそうに微笑んだ。


「……蓮さんの周りには、どうしてこうも常識外れな人ばかり集まるんでしょうね」


「類は友を呼ぶ、ってやつだろ」


 俺は肩をすくめた。

 役者は揃った。素材も、設備も、職人も。

 いよいよ、聖剣の修復、そして深層へ挑むための装備作成が始まる。


「出発は明日の早朝だ。荷物をまとめとけよ、親父」


「おうよ! 徹夜で道具の手入れだ!」


 店内に響く源三の怒声のような笑い声を聞きながら、俺たちは店を後にした。

 夜風が心地よい。

 深淵への扉を開く鍵は、今、確実に俺の手の中にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る