パクチー女と自重男

香山黎

第1話 黒髪緑インナーカラーの女

 ズ、ズズズ……。


 狭い空間に、すすり泣く声。ではなく、麺をすする音。


 油で埃にまみれたエアコンが過酷な環境で精いっぱい稼働をしている。


 しかし鍋からの湯気と熱気は、申し訳程度に可動する空調からの冷気を無常にかき消す。


 十畳にも満たない空間に、大人たちが集って麺をすする。入り口には、まだ人が並んでいる。


 正午過ぎ。俺、中里均なかざとひとしは午後休講ということで、この界隈で話題のラーメン専門店『麺屋もへい』で一人丼の到来を待っていた。


「お待ち」


 店主の太い指がカウンターに白い丼を運んだ。


 湯気がくゆり、鶏ベースの淡としながらも芳醇な脂と旨味の合わさった香りが食欲を刺激する。


 俺は早速箸を取って麺を口に運ぶ。ここの麺は細くて繊細、断然先麺派だ。


 この店の正午は魔の時間帯だ。一時間以上並ぶこともざらである。会社勤めの労働者たちが短い休憩時間を蕩尽しながらも暖簾もくぐれず泣く泣く退散していく姿を目撃している。


 午後休講、予定なし、金はラーメンを食う程度。ならば行くべし。


 絶好のタイミングでの入店からのオーダー。


 まさに至福。


 最高の1人飯を満喫し始めた時だった。


 ――なんだ、この匂い。


 青臭いような、独特な、アジア料理屋でよく香る匂い。


 発生源は隣の席からのようだ。横目でちらりと伺う。若い女だ。


 黒髪、耳の付近だけ緑色の髪はインナーカラーにして、ハーフアップにまとめている。


 その女の動作は極めて隠匿的であった。


 オーバーサイズのTシャツの裾をさりげなく上げる。


 露出狂?


 いや、そういった類いではなかった。


 取り出したのは半透明のタッパー。


 慣れた手つきで半開きにして、素早い手つきで自らの丼の中に投擲した。


 なッ!?疾い!そうじゃない、持ち込みトッピング!?


 なんという蛮行、なんという背信行為。麺道ウン十年の店主・松尾忠道の逆鱗に触れる所業である。


 カウンターの奥、壁際に座し左に自己空間マイスペースを形成したうえでの一連の動作はカウンターの陰で行われており、店主からは死角となる。


 計画的犯行と言って差し支えないだろう。


 だが死角になったとしても、そのもの自体が発する香りを留めることはできない。


 熱いスープの湯気にのり、換気扇と空調が作り出した風にあおられて、それの匂いは狭い店内に拡散した。


「……ん?」


「何?パクチー?」


 狭い店内に客のざわめきが生じた。


 コリアンダー。タイ語でいうパクチー。


 女がスープに放った招かれざるトッピングの名。


「お客さん――」


 肉に埋もれた切れ長の目が鋭く、カウンター奥に座する女をとらえた。


「持ち込みのトッピングはやめてもらえますか――?」


 当然だ。店主の鍛え抜かれた嗅覚が己の城へ闖入してきた賊の如きこの香りと発生源を捕らえられないわけがない。


 彼の声は明らかに己の聖域、麺の聖堂を汚された怒りを含んでいた。


「んぐ――?」


 だが、丼から上がった女の顔。草(パクチー)で頬を限界まで膨らませていた。


 お前、リスかビーバーか!ていうか麺とスープは?


 俺は思わず心のなかでツッコんだ。


 ざわめきから一転、緑インナーカラーの女のもごもご、という咀嚼音と換気扇の音のみ。

 

「んぐ――。私いいましたよね?」


「何だ?」


 店主は顔をしかめた。


「この鶏塩濃厚ラーメン、パクチーが合うから是非トッピングに、と伝えたはずです。が、今日に至るまでメニューに加わった様子はない。どういうことです?」


「どういうも何も、ここは俺の店だ。トッピングメニューに何を加えるかは俺が決める。第一パクチーなんて香りの強いものを入れたら店内に匂いが充満してスープの香りが分からなくなるだろ」


 そうだ、実際に充満している。


「どうやらご理解いただけていないようですね――」


「はぁ?」


 店主が俺を含む他の客の心情を代弁した。


「パクチーをトッピングメニューに加えない、それはこの店の経済的損失であるだけはなく――」


 女は立ち上がり、演説モードと言わんばかりに胸を張る。すらりとした立ち姿に俺を含む客の視線が集まる。


「――日本国民、いや人類にとって文化的損失と言っても過言ではありません!それゆえに、私は敢えて!やむにやまれぬ大和心からパクチーを持参するに至ったのです!!」


 自分の信念を疑わない、淀みない明朗な声。


 いや大和心とパクチーは相反する存在なのでは?

 俺は鶏チャーシューを咥えながら心の中でツッコんだ。


「わけがわからんことをいうな。もう帰ってくれ」


 店主は呆れ声で手で女を払ったが、彼女の態度は冷静そのものだ。


「よろしい、取引ディールということですね」


「は……?」


「少量のトッピングからでもかまいません。ゆくゆくは通常メニューも見据えて。お客が頼めば、需要が見えるでしょう?」


 某国の大統領か?次の問いに答えよ――。今の文脈で交渉のテーブルなるものがあるか。

 

 俺は緑インナーカラーの女の顔を見あげる。


 一片の曇りなきまなこ――。


 その時、店主が何かを思い出したようにカウンター下からA4サイズの紙を引っ張り出し、目の前の顔と見比べる。


「その髪型……お前、やっぱりそうだ!同業者連中から連絡があったんだよ。この界隈でトッピングメニューにパクチーを強引に勧めてくる女がいるって!」


 印刷面に、注意!二十歳くらいの女性、緑インナーカラー、よくしゃべる!と、でかでかとポップな字体が並ぶ。

 

 うん、よく特徴を捉えてる。


「あたし、まだ十代なんだけど……まあ、分かっているなら話は早いです。さあ」


「さあ、じゃねぇ!俺の店から出てけ!」


 激昂した店主の手にはギラリと光る中華包丁。


 女はその様子を見ても眉一つ動かさず、店主に向かって手をかざした。


「あいや、しばらく。まだスープを飲みきっていない――」


 絶叫。


 太い腕に握られた中華包丁が唸るように振り下ろされた。


 店主!いくら口下手だからって刃傷沙汰はいけない、俺も危ない!誰か警察を!


「ひぃ!」


 カウンターから抗議めいた鈍い音をたてて、包丁がめり込む。


 女の姿はない。


 と同時に、俺の頭にずん、と重みが。


 全てがゆっくりと、流れるように。


 俺の頭を発射台にして、女は天井方向に跳んだ。


 まるで猫科の動物のようにしなやかに。


 ショートパンツから伸びる脚が白色LEDに照らされて、滑らかに白く輝く。


 気づいた時にはすでに女は入り口にいた。


「邪魔したな、店主」

 

 そう言い残すと、女は脱兎のごとく、走り去っていった。


 唖然とした。

 俺も、他の客も、店主さえも。


 ふと、自らの丼に目をやると、ひらりと一枚のパクチーの葉。


 俺はそれを、スープとともに呑んだ。


 ――確かに、合う。

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