第10話 眠りの記憶
学校という場違いな場所で両親の言い争いがあった日の夜。 詩織は、自室のカーテンを閉め切り、薄暗い照明の下、ベッドに潜り込んでいた。
耳をふさがずにいると、今にもあの怒声が部屋の壁をすり抜けて届いてきそうで、
まぶたを閉じると、その“言葉たち”が心の内側でじわじわと膨らんでくる気がした。
けれどその夜、詩織の記憶の中から蘇ってきたのは、怒りでも涙でもなかった。
──それは、遠い昔。
ほんの小さな身体で、布団の中にうずくまっていたときの感覚だった。
胸がぎゅうっと痛くて、息がうまく吸えなかった夜。
でもその夜は、こわくなかった。
それは、やさしい光と、やわらかい声と、少しだけ冷たい指先が、
詩織の額にそっと触れてくれたからだった。
「だいじょうぶ。ゆっくり、すって。ゆっくり、はいて」
呼吸に合わせて繰り返された、穏やかな声。
詩織の身体は少しずつゆるみ、息の通りが戻っていった。
あのときの部屋の色。
カーテン越しのオレンジ色の街灯。
加湿器から香った、少し甘いミントの香り。
それらすべてが、アルファと過ごした夜の記憶として、
詩織のなかにはっきりと残っていた。
絵本のページをめくる音。わらべうたのような読み聞かせのリズム。
お話の途中で寝てしまっても、ページの音で途中までの記憶は蘇る。
「よるのくまが、つきのひかりをつれてくる」
その声が好きだった。
誰かに何かをしてもらって、安心して眠れることを、詩織はあの頃アルファから教わったのだった。
同じ夜、母親はひとり、リビングのソファに腰をかけていた。
指先にはワイングラス。
グラスの脚をゆっくりと回しながら、何度も何度も、自分の中の声を飲み込んでいた。
──「ママじゃできないの。アルファを呼んで」
あのときの詩織の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
幼い娘が苦しそうに息をしながら、それでも真っ直ぐに自分を拒絶した、あの夜。
母としての自分が否定されたようで、
どうしても、あの一言だけは、許すことができなかった。
それは愛だった。
それなのに、娘はそれを「足りない」と言った。
──そう感じてしまった。
だから、もう二度と、あの子にあんな顔をさせないと誓った。
人に見られて恥ずかしくない娘に。
どこでも生きていける、正しく強い子に。
それなのに。
今また、あの子の目が、心が、そして自分の母親としての尊厳が、
あの“化け物”に奪われようとしている。
あの頃と同じように。
母親としてではなく、ただの女として、
彼女はまた、あの夜の言葉に突き落とされていた。
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