第二部 シーン6

《小鳥遊》

九月も終わり、家はすっかり秋の気配に包まれていた。千歳は日に日に憔悴し、家で起こる不可解な出来事を訴え続けた。歯ブラシが移動したり、名前を呼ばれたり、オルゴールが勝手に鳴り出したりするという。

彼女の訴えは、僕の合理的な思考とは相容れないものばかりだ。僕は彼女の精神状態を案じ、疲労から来る幻覚だと信じさせようと努めたが、彼女の顔から生気が失われて行くのを見るたび、胸の奥に微かな不安が過ぎった。

だが、その不安はすぐに、彼女を病院へ連れて行くべきだという現実的な思考に置き換えられる。

午後、僕は書斎で溜まっていた書類を整理していた。来週からの出張に備え、持っていかない、必要では無い着替えをクローゼットにしまう必要があった。千歳に頼めば済むことだが、最近の彼女の様子を見ていると、余計な負担をかけたくなかった。それに、僕自身が、少し体を動かしたかった。


僕は、寝室の広大なクローゼットに向かう。そこは、この家の中でも特に広く、天井まで届くほどの高さがある。真新しい木の匂いが漂い、整然と並んだハンガーラックが、僕の秩序だった心を落ち着かせる。

スーツケースから皺になったシャツを取り出し、一つ一つハンガーにかける。次に、普段着を畳み、引き出しにしまう。何の変哲もない、日常の作業だ。しかし、その作業を進める中で、僕は微かな違和感を覚えた。

クローゼットの奥、通常なら壁であるはずの場所に、不自然な段差があるのだ。

それは、ハンガーラックのさらに奥、手が届くか届かないかの場所に、まるで壁が途中で切り替わったかのように、僅かに奥まった部分だ。壁紙の色や材質は同じだが、明らかにそこだけが、他の部分とは異なる構造になっている。僕は、手を伸ばし、その段差に触れてみた。ひんやりとした感触が伝う。

そして、微かに、木の板に貼られているような、硬質な手応えがあった。


僕の心臓が、ドクン、と小さく脈打つ。このクローゼットは、設計図にも記載されており、その構造は完全に把握しているつもりだった。こんな場所に、妙な段差など、あったはずがない。まるで、壁の中に、何か別のものが隠されているように思える。


僕は、さらに奥に手を伸ばし、その段差を感じようと触れていった。すると、指先に、ごく細い線が触れた。それは、壁紙の下に隠された、まるで扉の隙間のような、垂直に走る線だ。やはりか。やはり、段差が確かにある。そして、その線の先には、微かに窪みのようなものがある。取っ手にしては小さすぎるが、指を引っ掛けるには十分な窪みだ。

僕の合理的な思考は、これを「壁の歪み」や「施工上のミス」として処理しようとする。


だが、僕の好奇心が、その思考を上回った。この窪みは、まるで誰かが、意図的にそこに隠したかのような形をしている。

僕は、その窪みに指を引っ掛け、引いてみた。

ギィ、という微かに響く軋み音がした。

それは、これまで千歳が訴えていた音とは異なり、もっと古びた、深く淀んだ木の擦れる音だった。まるで、長い間、開かれることのなかった扉が、今、初めてその封印を解かれたかのような音だ。

だが、そんなはずはない。新しい家なのだ。

不安になったのもつかの間、壁紙が、線に沿って僅かに裂け、その奥から、暗闇が覗いた。

その闇は、まるで墨を溶かしたように深く、一切の光を拒絶している。僕の視覚は、その闇の深さを捉えきれない。そこには、空間があるというよりも、ただひたすらに、「無」が広がっているかのようだ。その闇の奥から、湿気を帯びた、そして紛れもない古びた木の匂いが、僕の鼻腔を強く刺激した。それは、千歳が訴えていた、あの不快な匂いと寸分違わぬものだ。

僕の心臓が、激しく鼓動し始めた。この闇の向こうに、何があるのだろうか。僕の合理性が、警鐘を鳴らす。

引き返すべきだ。

触れてはならないものだ。


だが、僕の意識は、その闇に強く引き寄せられていた。千歳の訴える音。彼女の感じる冷気。この古びた木の匂い。それらすべてが、この闇の向こうに繋がっているような気がした。合理的で彼女の納得する理由を見つけるのも兼ねている。


僕は、懐中電灯を取りに寝室へ戻り、再び扉の前に立った。光を当ててみる。だが、光は闇に吸い込まれるように消えてゆき、その深さを測ることはできない。ただ、目の前に、深淵が口を開けている。


この扉は、一体何なのだろう。新築のこの家の中に、こんなものが存在するのは科学的におかしい。

僕の心に、これまで感じたことのない強い好奇心が湧き上がった。顧みなければならない危険を顧みない、禁断の探求心だ。

千歳が訴える不可解な現象に、僕が合理的な説明を与えられなかったのは、もしかしたら、この闇の向こうに答えがあるからではないだろうか。僕の疑念を晴らすために、僕は、この闇の中へ、足を踏み入れると良いのかもしれない。

僕は、深呼吸をした。そして、一歩、足を踏み出す。

ひんやりとした空気が、僕の肌を包み込む。それは、この家の中で千歳が訴えていた冷気と、全く同じものだった。

足元は、土のような、あるいは古い石のような、ザラザラとした感触がした。

闇は、僕を完全に飲み込み、視覚は一切の情報を得ることができない。背後のクローゼットからの光が、徐々に遠ざかってゆく。

そして、僕が完全に闇の中に踏み入れたその瞬間、背後で、あの扉が、音もなく閉まるのが分かった。

カタン、というような音もなければ、風が吹く音もない。ただ、空気が切り替わるような、静かな変化だ。

僕は、完全な闇の中に、閉じ込められた。


心臓が、激しく脈打つ。

呼吸が、荒く、浅くなる。

この闇は、僕を押し潰そうとしているかのようだ。空気そのものが重く、僕の肺を圧迫する。どこが上なのか、下なのか、前なのか、後ろなのか。すべての方向感覚が失われ、僕は、ただ闇の中に浮遊しているかのようだ。


千歳が感じていた恐怖が、今、僕の身にも降りかかった。これは、彼女の幻覚などではない。この闇は、紛れもない現実だ。そして、この先に、何が待ち受けているのだろうか。僕の合理的な思考は、この状況を説明できない。ただ、僕の直感だけが、この闇の奥に、この家の、そしてこの土地の、隠された真実があることを告げていた。それは、僕がこれまで信じてきた世界のすべてを、根底から覆すような、絶対的な闇だった。

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