《小鳥遊》
九月に入り、朝夕の空気はめっきりと冷たさを増した。家の窓から差し込む光は、八月の輝かしいものとは異なり、どこか透明感を帯びている。引っ越してきて一月が経ち、ようやく生活のリズムも整ってきたように思える。
段ボールの山は消え、家具はそれぞれの場所に収まり、家は「僕たち」の形を纏い始めていた。僕の日常は、以前と変わらず、合理性と効率性の中で粛々と進められていた。会社での仕事は多忙を極め、家に戻れば、静かで清潔な空間が僕を待っている。
だが、その完璧なはずの日常の中に、微かな、不協和音が混ざり始めたのは、いつからだっただろうか。
妻の千歳の変化だ。
引っ越してきた当初から、千歳は時折、奇妙なことを口にするようになった。
「この家、なんだか湿っぽい気がするの」「古い木の匂いがする」
「特定の場所だけ、ひどく冷たいの」――。最初は、新しい環境に慣れないせいだろうと、僕は軽く受け流していた。新築の家特有の匂いや、季節の変わり目の気温差に、彼女が敏感になっているだけだと思っていた。
しかし、その言葉は、日を追うごとに具体的な「音」に変化していた。
「ねえ、あなた。今、何か聞こえなかった?」
朝食の食卓で、千歳は突然、フォークを止めて僕に尋ねた。僕が新聞から顔を上げると、彼女は耳を澄ますように、僅かに首を傾げている。
「何も。どうしたんだい?」
僕がそう返すと、彼女は少し困ったように眉を下げた。
「上の方から、何かを引きずるような音がしたような気がしたの。ギィ、ギィって……」
僕は、耳を澄ませてみた。だが、聞こえるのは、庭から届く蝉の声と、遠くを走る車の音だけだ。家の中は、僕たちの呼吸の音以外、何の音も立てていない。
「気のせいじゃないか? まだ、慣れないんだろう。」
僕は、そう言って、再び新聞に目を落とした。千歳は、それ以上何も言わず、黙って食事を再開した。だが、その横顔には、納得していないような、どこか不安げな表情が浮かんでいた。
その日以来、千歳は、頻繁に「音」のことを口にするようになった。
「今朝も、また聞こえたの。階段を上り下りするような足音が……」
「夜中に、誰かが壁を叩くような音がするのよ、トントンって……」
「奥の部屋から、微かに、話し声が聞こえるような気がするの……」
その度に、僕は耳を澄ませるが、何も聞こえない。僕の耳には、ただ、静寂だけが響いている。彼女の言葉は、僕の合理的な思考とは相容れないものだった。この家は、最新の技術で建てられた、完璧な防音性能を持つ新築だ。隣家との距離も十分にあり、外部の音が侵入する余地はほとんどない。ましてや、家の中に、僕ら以外の人間がいるはずもない。
僕は、千歳の言葉を、彼女の精神的な疲弊として受け止めるようになった。引っ越しは、想像以上に彼女に負担をかけたのかもしれない。新しい環境への適応、荷解き、慣れない場所での家事。
繊細な彼女にとって、それらは大きなストレスになっているのだろう。そう考えることで、僕の心は、ある種の納得を得た。
だが、千歳の様子は、日に日に奇妙な方向へと変化していった。
彼女は、以前よりも口数が減り、どこか遠くを見つめる時間が増えた。僕が話しかけても、反応が鈍いことがある。そして、特定の場所を避けるようになった。特に、二階の奥にある、かつて洋館の和室があったという場所に当たる部屋には、ほとんど足を踏み入れようとしない。その部屋の前を通る時、彼女はいつも、まるでそこに見えない何かがあるかのように、顔をこわばらせ、足早に通り過ぎてゆく。
夜、僕は書斎で仕事をしていた。
静まり返った家の中で、キーボードを叩く音だけが響く。ふと、階下から、微かな物音が聞こえたような気がした。
カタン、と、何かが倒れるような音。
僕は、作業の手を止め、耳を澄ませた。
だが、すぐに音は消え、再び静寂が戻った。
「千歳かな?」
僕は、そう思い、気にせず作業を再開した。しかし、その直後、再び、今度はもう少しはっきりと、何かが引きずられるような音が聞こえた。ギィ、ギィ、と、重いものが床を擦るような音。それは、千歳が以前口にしていた音と、酷似していた。
僕の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。僕は、椅子から立ち上がり、書斎の扉を開けた。廊下は暗く、何の物音も聞こえない。リビングへと続く階段を下りる。リビングには、千歳の姿はなかった。キッチンも、ダイニングも、どこにも彼女の姿はない。
「千歳?」
僕は、声を上げた。だが、返事はない。家の中は、相変わらず静まり返っている。
僕は急いで、音の聞こえた方向に足を向けた。
リビングの奥、以前、洋館の応接間があったと言われる部屋だ。そこには、まだ荷解きされていない大きな段ボール箱がいくつか置かれている。
暫く探すと、
その段ボール箱の影に、千歳がいた。
彼女は、壁に背を向け、膝を抱えるようにして座り込んでいた。顔は青ざめ、その体は、微かに震えている。僕が近づくと、彼女はハッと顔を上げ、僕を見た。表情は、恐怖と混乱に満ちていた。
「どうしたんだい? 千歳。」
僕が尋ねると、彼女は震える声で言う。
「聞こえたの……。また、あの音が……。誰かが、何かを、引きずっているような……。」
彼女の言葉は、まるで、僕の合理性を嘲笑うかのように、僕の耳に響いた。僕は、彼女の隣に嗄み込み、彼女の肩に手を置いた。彼女の体は、冷たく、硬直していた。
「大丈夫だ。何も聞こえない。君が疲れているだけだよ。」
僕は、そう言って、彼女を抑え込む。彼女の震えは、微かに収まったように見えた。だが、僕の心の中には、拭い去れない疑問が残っている。
本当に、気のせいなのだろうか。
彼女は完全におかしくなっているのかもしれない。
僕には聞こえない音が、千歳には聞こえている。
僕には感じられない何かが、千歳には感じられている。
この新しい家は、僕にとって、完璧な安らぎの場所だったはずだ。だが、千歳の変化と、彼女が訴える不可解な現象は、僕のその認識を、徐々に揺るがし始めていた。僕の合理的な思考の隙間から、得体の知れない不穏な影が、音もなく這い上がってきているように────。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます