第二部 シーン2
《翡翠》
舞蝶の声が、耳ではなく、直接わたしの意識に響いたあの日から、どれほどの時間が経ったのだろう。この和室は、わたしを捕らえる檻である。
いつ逃れられるのだろうか。
そう自分に問う度に、絶望的な答えが返ってくる。
時折、意識が遠のくような感覚に襲われ、再び目覚めると、相変わらず舞蝶は床の間に音もなく座している。その目は、感情を宿さないままわたしを見つめ続け、その沈黙は、この部屋の空気を一層重くしてゆく。わたしは、この得体の知れない空間に、完全に閉じ込められていることを、嫌というほど理解していた。
動かない身体に鞭打つように、わたしは震える足で立ち上がった。
逃げなければならない。
虚しく、本能的にそう思う。
この場所から、いや、特に舞蝶から、逃げ出さなければいけない。
そうしなければ、わたしは本当に、わたしでなくなってしまう。舞蝶の意識に触れて以来、時折、彼女の深い孤独や憎悪が、わたしの心に流れ込んでくるような錯覚に襲われることがある。それは、まるでわたし自身の感情であるかのように錯覚し、吐き気を催すほどの不快感を伴うのだ。
わたしの視線は、部屋の入り口の方向へと向かった。
そこには、先ほど入ってきた二つの襖が、固く閉ざされている。
この襖を開けば、元の廊下には戻れるはずだ。
だが、その先はどうか。
廊下は、どこまでも続く。突き当りも見えないほど長く。
元いた位置にいても、逃げられない。反対側も、あまりに遥か遠く、見ることすら出来ない。
障子を開けてみてはどうだろうか。
急いで廊下に出ると、障子を開けてみた。白い。鋭い光が全体に満ち、目が痛い。
目を開けることすら困難だ。
これは安全だとは思えない。
戻れるとは思えない。
それでも僅かな可能性にかけ、わたしは目を閉じたまま、中に踏み入れた。
しばらく意識が飛び、周囲を見渡した。
床の間に、少女の姿がある。誰にも使われず、使用感のないまま朽ちた和室が拡がっている。
なぜか。
わたしは戻ってきていた。
舞蝶はにやりといやらしく笑んでいる。
間違ったのだろうか。
いや、そんなはずがない。
一歩、また一歩と、震える足を引きずりながら、わたしは襖に近づいた。畳を踏む音が、やけに大きく響く。全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出すのが分かる。冷や汗は、肌の上で乾くのでも、蒸発することもない。
不快に全身を覆い尽くし、わたしは僅かに眉を顰める。恐怖が、再び思考のすべてを飲み込み始めた。背後からは、舞蝶の視線が、皮膚を突き破り、内臓の奥底まで見透かすような鋭利な光を宿しているのが感じられる。
襖に手をかけると、ひんやりとした木の感触が、指先から伝わる。重い引き戸に手をかけ、力を込めた。ガラガラ、と鈍い音が、音が全くない和室に響き渡る。
しかし、襖は開かない。
何度も、何度も、力を込めて引いた。腕の筋肉が悲鳴を上げ、肩が軋む。音はするのに、何故だろう。
体重をかけて、全体重を乗せるように押してみた。けれど、襖はびくともしない。まるで、重い岩にでもなったかのように、ぴたりと閉ざされたままだ。
なぜ、開かないのだろうか。
混乱と絶望が、再びわたしを襲った。喉の奥が枯れ叫べない。声も空気に変わる。逃げ出したい。しかし、扉は言うことを聞かない。見えない鎖で、この場所に縛り付けられている。
息が、荒く浅くなる。
肺が、酸素を求めて激しく上下する。
わたしは、絶望に打ちひしがれ、その場に膝から崩れ落ちた。
顔を覆い、荒い呼吸を繰り返す。
襖が、先程は、簡単に開いたはずなのに、何故か、ビクともしない。
それだけでは無い。わたしの知る限り、この洋館の襖は、どれも古いけれど、決して固く閉ざされるようなものではなかったはずだ。
「どうして……どうして開かないの……っ」
今度は声が予想と違い飛び出し、かなり大きく響いたが、舞蝶は、何も言わない。ただ、沈黙が、重く、和室全体にのしかかる。
空気そのものが、一刻一刻と重たく圧し掛かってくるように感じられた。舞蝶の存在が、この閉ざされた空間を、さらに異様なものへと変質させている。
視線を上げると、舞蝶は変わらずそこに座っている。その無表情な顔は、まるでわたしの混乱と絶望を、嘲笑っているかのようだ。彼女のめの奥に、微かな嘲笑と、そして、わたしには到底理解できない、途方もない虚無が宿っているのが感じられた。
この襖は、外への扉では無くなっている。
わたしは、この和室に閉じ込められている。
舞蝶によって、あるいは、舞蝶が宿るこの和室によって、永遠に。
この圧倒的な恐怖の前では、わたしの意志も、思考も、何の役にも立たない。
抗うことのできない、不可避の現実だと悟る。わたしの抵抗など、あげはの前には届かない。わたしからでて、直ぐに消え去る。
そして、再び意識が遠のいてゆくのが分かった。瞼が重く、視界が歪む。このまま、わたしはここで、舞蝶と一体となってしまうのだろうか。その恐怖だけが、意識の中で、大きく膨れ上がった。
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