第二部 【舞蝶①】

《舞蝶》

雨が降るわけではなひないのに、空は薄鈍色に沈み、大地からは冷たさが拭い去られてゐなひ。洋館の庭では、芽吹ひたばかりの草葉が、冷気に震えるように立ち尽くしてゐる。新たな季節の訪れを告げる気配は、僅かに感じられるものの、この家の中には、常に変はらぬ澱んだ空気が満ちてゐた。わたしは、この屋敷の隅々にまで染み付いた、重ひ静寂の中で息をしてゐた。


朝食の食卓は、ゐづも同じ配置で、そこには厳格な序列が刻まれてゐる。長い黒塗りの食卓の中央に父が座り、その右手に母、左手には姉の桔梗が位置する。彼らの手元には、銀食器の輝きが鈍く反射し、磁器のカップからは、湯気が僅かに立ち上ってゐた。わたしは、食卓の端、窓から最も遠い場所に、小さな木製の椅子を引き寄せて座る。そこは、日光の恩恵を受けることもなく、常に薄暗い影に覆われてゐる場所であった。


温かひパンの香りが、微かに鼻腔をくすぐる。しかし、わたしの皿には、焼きたてのそれが直接置かれることはなひ。使用人の手が、まず父の皿に、次に母、そして桔梗へと、丁寧に配膳してゆく。彼らが口をつけ、食事が進むにつれて、ようやくわたしの前に、残されたパンの切れ端や、冷え切ったスープが置かれる。その間に、会話が交わされることは滅多にない。ただ、食器が触れ合ふ微かな音と、時折聞こへる父の低く短ひ指示の声が、空間を満たすのみである。わたしは、与えられたものを、無言で口に運ぶ。その味は、常に淡く、記憶に残ることはなひ。


食事が終わると、すぐに父は書斎へと向かふ。母は、桔梗を伴ひ、応接間へと移動した。彼らの足音は、絨毯の上でも僅かな響きを立て、やがて遠ざかる。わたしが少しでも足音を立てれば揚げ足をとるやふに指摘するといふのに。

残されたわたしは、食卓を片付ける使用人たちの動きを、ただ静かに見つめる。彼らの間には、わたしとは異なる、ある種の連携と規律が存在している。皿を重ねる音、水を流す音、それらの規則正しい響きは、この家の中で、わたしだけが属さない領域を示してゐた。彼らは、わたしに直接言葉をかけることは少ない。しかし、彼らの視線や、時折交わされる低い声の指示は、わたしが彼らよりも下位に位置することを、明確に示してゐた。彼らは、与へられた役割を全ふするだけで、わたしへの配慮は、そこに存在しなひ。

午後の時間は、桔梗の部屋で過ごすことが多い。彼女の部屋は、日当たりの良い南側に位置し、窓からは庭の若葉が鮮やかに見える。そこには、真新しい人形や、舶来の絵本が綺麗に並べられてゐる。だが、わたしは、それらに触れることを許されなひ。桔梗は、ソファに腰掛け、新しい刺繍糸を手に、黙々と作業を進める。わたしは、彼女の傍らで、静かに座ってゐる。時折、彼女は不意に顔を上げ、わたしに目を向ける。その眼差しは、常に冷たく、わたしが存在していること自体が、彼女にとって煩はしひと語っているやふだ。


「あの本を取りなさい。」


桔梗の指示は、常に短く、感情を含まなひ。雑談をすることも思ひ出せなひ。わたしは、無言で立ち上がり、指定された本を棚から取り、彼女の元へと運ぶ。その間────いや、ずっとわたしの存在は、ただの道具として扱はれる。本を渡し終えると、わたしは再び元の場所に戻り、座り込む。言葉を交わすことは許されず、意見を述べることなど、想像すらできない。わたしは、部屋の隅で、ただ静かに、桔梗の一挙手一投足を見つめるしかなかった。桔梗のめの中に、わたし自身の存在は映ってゐなひ。眼中に無ひとはまさにこのことであらふか。


日が傾き始めると、庭の影が長く伸び、洋館の壁に不気味な模様を描き出す。西日が差し込む廊下は、一日の終わりを告げるように、薄暗く染まってゆく。その光景は、わたしの心の中の影と重なり合う。この家に越してきてもう二年が経ったか。季節が巡り、時の流れは、わたしをこの現状に深く根付かせてゐた。抗ふ術もなく、ただ受け入れることしかできない。

夜の帳が降りる頃、再び食卓が用意される。

わたしには昼食が無ひ。昼食の存在すら、最近知ったほどである。

夕食は、昼食と同じやふに、父と母、桔梗の三人の為に、特別に設えられた食卓である。ひとつ違ふ事があると言へば、わたしが、彼らの食事が終わるのを、居間の片隅で待つことだ。彼らの会話は、わたしの耳には届かない。遠くで響く笑い声や、楽しげな声が、薄い壁を隔てて微かに聞こえてくる。それは、わたしが属することのできない、別の世界の音であった。

やがて、使用人がわたしを呼びに来る。冷え切った残り物を盛られた皿が、わたしの前に置かれる。

そして、ただ、わたしが独り、冷え切った空間でそれを食むという事実が、わたしの孤立を一層際立たせていた。味を感じることはなかった。ただ、空腹を満たすためだけに、機械的に口を動かす。

食事が終わると、わたしは自室へと向かふ。わたしの部屋は、屋敷の二階に位置し、窓の障子は塞がれ、一日中、陽の光が差し込むことはない。常に薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいる。小窓の外には、鬱蒼とした木々の影が広がり、闇に溶け込んでいる。その景色は、わたしの心境そのもののやふだ。わたしだけ部屋が和室で、使用人小屋のように粗末でくらい。

寝台に横たわり、天井を見つめる。そこには、何も描かれてゐなひ。わたしは、この屋敷の片隅で、ただ息をしている。明日も、明後日も、そしてその先も、何も変わることなく、この重い静寂の中で、わたしはわたしであり続けるのだろう。それが、この家でわたしに与えられた唯一の役割であるのだ。

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