《真珠》

歌帆と別れて喫茶店を出た後も、雨は止むことなく降り続いていた。アスファルトに叩きつけられる雨粒が、水たまりの上で小さく跳ね、無数の波紋を描いている。傘を伝って滴り落ちる水が、アスファルトに黒い筋を作り、街の景色を一層陰鬱なものにしていた。湿度を含んだ重い空気が、肺の奥まで入り込み、呼吸するたびに胸が圧迫されるような不快感を覚える。わたしの足取りは、鉛のように重く、水気を吸った靴が、歩くたびに鈍い音を立てた。


歌帆の「まあ、あの家だからね」という言葉が、わたしの脳裏に繰り返し響く。わたしも、そう聞いたときは納得してしまっていた。古くから、いろいろとため込み、開くことのなかった蓋を開けた時のように、わたしの記憶の奥底に眠っていた、洋館に関する様々な話が、次々に沸き、わたしの脳裏を埋め尽くしていた。


あの洋館には、時代によって僅かに異なるが、常に噂が付きまとっている。

雨に濡れた街路樹の葉が、重たげに垂れ下がり、車道の水しぶきが、歩道にまで飛んでくる。わたしは傘を傾け、濡れるのを避けるように身を縮めた。


気付けば思考は、洋館の都市伝説の記憶に深く沈んでいた。

洋館の伝説の始まりはいつであったか。始まりは、誰かの間で、ごく自然に囁かれ始めた、脈絡のない噂話に過ぎなかったはずだ。そしてそれは、突然、誰かの口から皆に向けて発せられ、あっという間に共通の認識として定着したのだろう。しかし、その根源を辿ろうとすれば、誰も明確な答えを語ることはできない。まるで、この地域に古くから存在する、見えない瘴気のように、人々の意識の中に染み付いていた。

少なくとも、わたしに物心がついた時期には、知らない人がいない、町で有名な都市伝説となっていた。

その噂の火種となったのは、不幸な死を遂げた少女の存在であったという。その少女が、いつの時代の人間であったのか、その死が具体的にどのようなものであったのかは、いまや誰も知らない。

噂を作った人間も息をひそめ、追加のうわさは、住人によって作られてゆく。

ただ、「洋館で、一人の少女が、悲劇的な最期を迎えた」という、漠然とした情報だけが、始めから繰り返し語られていたと聞いた。その死が、洋館の、特にあの和室とどう結びつくのかも定かではない。しかし、その少女の死が、洋館にまつわる不幸の始まりであるかのように、人々の記憶には刻まれている。

そして、その少女の死以降、洋館に引っ越してきた者は、必ず行方不明になったという。それは、代々この地に住む者の間で、囁かれてきたもう一つの話といえよう。引っ越してくるたびに、住人が消える。しかし、その話の信憑性は、常に曖昧なものであった。

だが、その洋館に「住んだ人間以外」は、決して行方不明にならない。近所の人間が、好奇心から洋館の敷地に入り込んだとしても、彼らは何事もなく戻ってくる。ただ、洋館に「住んだ」者だけが、痕跡もなく消え去るという。そのため、その話の真偽は定かではない、というのがわたしたちの共通認識だ。誰もが知っている噂ではあるが、それを本気で信じている者は少なく、皆娯楽として囁く。

思い返しても、幼少期の話とは、違う部分があった。

しかし、歌帆の言葉は、その曖昧な記憶の膜を破った。今回の行方不明事件が、その伝説と重なり合う。それは、単なる偶然なのだろうか。わたしは、過去の記憶を辿るように、眉間に皺を寄せた。

幼少期、わたしの友人の間では、あの洋館の噂は、一種の禁忌であったと思い出す。肝試しで、誰かが洋館に近づこうと提案しても、結局誰もそこまで行くことはない。薄気味悪い雰囲気を纏うあの建物は、わたしたちにとって、近づいてはならない場所として認識されていた。特に、雨の日や、夕暮れ時になると、洋館の陰鬱さは増し、その存在そのものが、見る者に不安を与える。

洋館の庭は、手入れはされているようだが、それは時々の事で、普段はかなり雑草が伸びている。

廃墟のよう、とまではいかないが、手入れは決して行き届いていない。

木々は鬱蒼と枝を広げ、陽の光を遮っている。雨に濡れると、一層その黒々とした葉が、重苦しい影を落とす。まるで、洋館自体が、外界との接触を拒み、その中に何かを閉じ込めているかのようだ。

なぜ、あの洋館にばかり、そのような噂がつきまとうのか。他の古い屋敷には、それほど明確な話はない。黑い木が、怪しく映るゆえんであろう。

今のわたしには、まるで信じられない。

確かに古い石壁の佇まいは不気味だが、住人が消えたところを見たことはない。

翡翠という少女の失踪が初めてだ。

洋館の都市伝説に関する断片的な情報は、常に、不幸な出来事と結びついているが、すべて昔の事件ばかりで、こじつけのようにしか思えない。

一瞬不安になったが、翡翠の失踪は偶然であろう。


傘を伝って滴る雨水が、わたしのコートの裾を濡らしてゆく。冷たい水滴が、肌に触れるたびに、わたしの胸に、薄ら寒い予感が広がっていった。行方不明を、洋館の都市伝説に結び付けるのは正しいと思えないが、失踪は事実だ。事故の可能性だけではなく、事件の可能性がある。

全身の毛が逆立つような恐怖が襲う。わたしも狙われるかもしれない。もし事件が起こっていたなら、都市伝説をなぞり、洋館の住人だけを狙うなどということはないだろう。わたしは、ただ、足元の水たまりを避けながら、家路を急いだ。

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