第一部 シーン4
《承己》
夜の帳が降りても、雨は止む気配を見せない。むしろ昼間よりも一層、その降り方は激しさを増しているようだ。窓を叩く雨音が、絶え間なく響いている。今も和室は雨漏りをしているのだろうか。早く雨がやまなくては、雨漏りも終わらないかもしれない。
窓辺に飾られたてるてる坊主を見て、雨が止むのを願った。
和室の雨漏りは、わたしが想像していた以上に深刻なようだ。翡翠の部屋から、不安げな声が聞こえて来る。鍋を撮ったり、洗面器をとり、ついには皿までを担ぎ出そうと彼女は部屋を行き来している。
わたしには助けることも出来ない。家事が終わらなくては俊蔵が怒鳴り、さらに翡翠に迷惑をかけてしまう。俊蔵さえいなければ、彼女のことを助けられたのに────。
「ママ、部屋の雨漏りが全然止まらないの。もう、バケツも洗面器も間に合わない。お皿も使ったけど……」
翡翠の声は、震えている。その言葉に、わたしは家事を忘れて翡翠の部屋へ走ってゆく。部屋の扉を開けると、昼間の混乱が更に凝縮されたような光景が広がっていた。悪化していることは翡翠の部屋から聞こえる声で察していたが、ここまでとは予想していなかった。畳の上には、大小さまざまの容器が所狭しと並べられ、そのほとんどが、すでに黒い水で満たされかけている。天井からは、何箇所からも水が滴り落ち、ぴちゃり、ぴちゃり、と不気味なまでに規則的な音が、部屋全体を包み込んでいる。畳は、広範囲にわたって湿り気を帯び、黒い染みがじわりじわりと広がってゆく。
翡翠は、部屋の隅に寄せられた布団の方を見て呆然と立ち尽くしている。顔は青ざめ、不安と疲労が色濃く浮かび上がり、肩は壊れそうなまでに震えていた。彼女を、このような状況に置いていることは、わたしのせいでもある。母親として、翡翠を守ることができない。その無力感が、わたしを深く抉ってゆく。
「分かった。翡翠、今すぐパパに相談するから、ちょっと待っててね」
わたしは、絞り出すような声でそう告げ、足早にリビングへ向かった。俊蔵は、暖炉の前に座り新聞に目を通している。
わたしは、感情を抑え込むように、彼に語りかけた。感情を少しでも出してしまえば、わたしは冷静な口調を保てない。
「俊蔵さん、翡翠の部屋の雨漏りがひどいんです。もう、このままじゃ部屋で眠ることができないの。どうにかしてあげてほしいの」
わたしの言葉に俊蔵は予想より早く顔を上げる。彼の視線は、新聞からわたしへ移り、その無言の圧力が、わたしの心を重くする。
「雨漏りか。けど、今から業者を呼ぶことはできないよ。明日にでも手配する」
彼の返答は、あまりにも冷静で、そして、わたしの予想の範囲内であった。彼の思考は、常に合理性に基づいている。緊急性はあるものの、夜間にできることには限りがあると彼は判断したのだろう。しかし、翡翠は今、この瞬間にも困っているのだ。
「明日のことじゃなくて、今夜のことです。このままだったら、翡翠は眠ることができません。どこか、他に眠れる場所はない?」
わたしの声には、隠しきれない焦りが滲んでいる。けれども、俊蔵の表情は、微塵も変わらない。彼の顔には、わたしの感情が一切届いていないかのような、無関心な色が貼り付いている。
「この洋館は広い。どこか空いている部屋はないのか」
彼の能天気ともいえる言葉に、わたしは思わず反論してしまう。
「空いてる部屋はまだ荷物が片付いてない部屋ばっかり。寝られる隙間はありませんよ」
事実である。引っ越してきて数日しか経っておらず、どの部屋もまだ完全に生活できる状態にはなっていない。冷暖房設備も、十分に整っているとは言えない。冬の引っ越しであれば布団を大量に出すなど、もう少し対策はあるだろう。だが、梅雨のこの時期、洋室は独特の湿気と不快な温度に満ちている。
俊蔵は、腕を組み、わずかに思考する素振りを見せた。その短い沈黙が、わたしには永遠にも感じられる。そして、彼の口から発せられた言葉は、わたしの予想を裏切らないもの────だがやはり、わたしを絶望させるものであった。
「それなら、廊下で寝かせれば良いじゃないか。あの廊下は広いぞ。布団を敷けば、十分に眠れる」
彼の言葉に、わたしの全身から血の気が引いてゆくのを感じた。この古い洋館の、ひんやりとした廊下で、娘を眠らせるというのだろうか。彼にはそんなことを簡単に言えるのだろうか。
彼の言葉には、翡翠への配慮が微塵もない。彼の思考の中には、彼女の心や、身体への影響など、全く存在しないようだ。
「廊下……?冗談でしょ?廊下で寝かせるなんて、できるわけないでしょう!廊下なんてよく思いつきましたね……」
わたしの声は、怒りに震え、空気をピリピリと波打たせる。そして最後には彼の無表情な壁の前で、虚しく拡散してゆく。
わたしの怒りなどとどかない。彼の言葉をきくまえにそんなことはわかっている。
「他に選択肢はない。僕が明日にでも業者を手配するんだから、今夜だけのことだよ。我慢させれば良い」
彼の言葉は、あまりにも冷徹だ。彼の「我慢」という言葉は、常に他者に向けられるもので、彼自身がそれを実践することは、決してない。
結局、議論は平行線を辿ったまま、わたしや翡翠も納得するような終着点を見出すことはなかった。
彼を変えることはできないのだ。
どれだけ言葉を尽くしても、彼の心を揺り動かすことはできないのだ。
わたしは、重い足取りで翡翠の部屋に戻る。翡翠に告げられない。わたしの無力さが、長い廊下の中でわたしを締付ける。
足が止まる。
彼女の顔を見るのが辛い。
わたしはなぜ強く言わなかったのだろうか。
だがもう戻れない。
彼のいるリビングに足は向かない。
翡翠の部屋の前に立っていた。
ドアを開け、中を除きこむ。
翡翠はまだ絶望を露わにして立ち尽くしている。こんなことで追い打ちをかけて良いのだろうか。
良くはない。
そんなことはわかっているが、どうすることも出来ず、気づけば彼女と目が合っていた。
翡翠は、わたしの顔を見て、その結果を察したようであった。彼女の顔に、諦めと莫大な悲しみが広がってゆくのが見て取れた。
「翡翠……許して。今夜は、廊下で眠ることになって……頑張って説得したんだけど……」
その言葉を口にするのが、あまりにも辛かった。翡翠は、何も言わず、ただうなずいている。その沈黙が、わたしの胸をさらに締め付けてゆく。
わたしはとぼとぼと廊下へ向かった。廊下はじっとりとした空気と対照的に冷え込み、身震いをするほどだ。雨音は、相変わらず激しく降り続き、その音が、この廊下の冷たさを一層際立たせている。
わたしは、何もできないのだ。
ただただ、雨音だけが、わたしを責め立てるように絶え間なく聞こえてくる。
この洋館での生活は、どこまで、わたしたちを試すのだろうか。
わたしには、全く見当がつかなかった。
翡翠はしばらくしてもこちらに来ない。一人、落ち込んでいるのだろう。慰めにゆきたい。だが、動けない。
気づけばわたしは、廊下の隅に座り込み、眠れない夜を、過ごすしかなかった。
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