《翡翠》

身体を覆う布団の柔らかな感触を、突然肌に感じる。現実に引き戻されるような感覚が、同時に体を包み込む。不思議な感覚を覚え、無意識に息を吸い込んだ。空気が湿気を帯びている。

じっとりとした熱気が、わたしを包んでいた。目を開けると、天井の木目がぼんやりと視界に映る。先程までさまよっていた和風の長い廊下と、二つの和室────あれは、夢だったのだろうか。現実と夢の境目が曖昧で、頭の中に微かな靄がかかったようだ。

今になっては、あれが何だったのか、実在するのかしないのか、夢なのかも分からない。

一瞬辺りを見渡して、和室が目に飛び込んでくる。和室の光景に一瞬身構えたが、わたしの私物に安堵を取り戻した。

一気に力が抜け、寝不足からか再び眠りそうになる。意識はとろみだし、現実と夢を彷徨う。景色も曖昧になり、ぼやけたセピア色が、視界を包む────。



ぴしゃり、と、額に冷たい水滴が滴り落ちた。予想もしない感触に、反射的に手を伸ばす。指先に触れたそれは、ひんやりとしていて、粘り気があるように感じられた。薄墨のように薄黒い。僅かに指先の色が透けている。滴り落ちるでもなく、指先にへばりついているように見える。

なんだろう、と考えるより前に、わたしの思考は一時停止した。何が起こっているのか、理解が追いつかないまま、指先についた黒い水滴を、ただ呆然と見つめる。

インクのように真っ黒ではなく、水分を多く含んだ、薄い影のような黒だ。薄墨に色は似ているがもっと粘っている。指を下に向けてみたが、水玉を作るだけでなかなか落ちない。

呆然としている間にも、水は絶え間なく滴り落ちてきた。ぴしゃり、ぴしゃりと、もはや規則的な音が、静かな和室に響き渡る。その音が鳴る度、わたしの心の奥底には不安の種が蒔かれてゆく。

全身の神経が、脳に集まるような感覚がした。ぴちゃ、ぴちゃ。水溜まりができてゆくのが、見なくても手に取るようにわかる。

身体を起こそう、と考えるより前に、気づけばわたしは布団の上に座っていた。

横を見れば、畳の上に、すでに黒い染みが小さく広がっているのがめに飛び込む。その染みは、次第に輪郭を広げ、畳の目にじわりと染み込んでゆく。ティッシュを取らなくてはと思うが、硬直してしまいては動かない。

ティッシュを取れた時には、既に黒い染みは直径三十センチほどに拡がっていた。


慌ててティッシュを水たまりに投げ捨てると、寝乱れた布団を払い除け、部屋の隅に目をやった。確か、掃除用のバケツがあったはずだ。慌てて立ち上がり、よろめく足取りでバケツを探しに行く。前の家から埃をかぶったままのバケツを掴み、水が滴る真下へと置いた。カタン、と鈍い音がして、水滴がバケツの底に吸い込まれてゆく。ぴちゃり、ぴちゃり、という音は、バケツに水が溜まるにつれて、その響きを変えていった。

天井を見上げると、その一点から、黒い水滴が断続的に滴り落ちているのが見える。木材の継ぎ目に、黒ずんだ水の筋が伸び、それが徐々に染みとなって広がってゆく。長く続く雨の影響だろう。梅雨の盛りである。連日降り続く雨が、古くなった屋根の隙間から、ついに浸み込んできたのだ。昨日引っ越してきた時から────引っ越す前から雨が降らない時間はほとんどなかった。じめじめとした湿気が常に部屋に充満し、空気は澱み、窓を開けても、外から入ってくるのは、さらに重い湿気を含んだ風ばかりだ。

畳の感触も、常に湿り気を帯びている。この和室は、洋館の西の端、一階を挟み庭に面した場所に位置している。外の湿気の影響を、最も受けやすい場所なのかもしれない。天井から滴る水は、その湿気を凝縮したかのようで、まるで、この洋館全体が、今にも泣き出しそうな、そんな感触をわたしに与えた。

バケツの中には、すでに黒い水が厚く溜まっている。透明なはずの水が、なぜこのように黒いのか。屋根裏の埃や、長年の汚れが、雨水に溶け出してきているのだろうか。その黒い水は、まるで、この洋館が抱え込んできた、長い歴史の澱みそのもののように思えてしまう。これは、単なる雨漏りではないのだろうか。

わたしは、ただその光景を、じっと見つめていた。ぴちゃり、ぴちゃり、ともはや規則的に落ちる水滴の音が、わたしの思考を占める。不安や不快感、漠然とした諦めなどの感情が混じり合い、わたしの心を重く沈ませてゆく。この洋館での生活は、まだ始まったばかりだというのに、すでに多くの違和感と、重苦しさに満ちている。

窓の外は、依然として雨が降り続いていた。

寝る前に雨の音が聞こえなかったのも、雨が降っていなかったのではなく、屋根に吸い込まれていただけなのかもしれない。庭の木々は、雨に濡れて、黒々と佇んでいる。その景色は、わたしの心象風景そのものだ。いや、もしかしたらわたしがそれに染ってしまったのかもしれない。光の届かない場所で、黒い水が音もなく浸食してゆく。バケツに溜まる黒い水滴の音が、絶え間なく、そして無情に響き渡る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る