《翡翠》
五月の夕暮れは、やわらかな光を部屋に落としていた。窓の外では、まだ緑の淡い葉をつけた木々が、微風にそよぎ、さざめくような音を立てている。部屋の中は、昼間の暖かさが残り、夜の冷え込みはまだ襲わない。わたしは自室で、読みかけの本を閉じ、ぼんやりと空を眺めていた。夕食の支度が始まる頃、母の声がわたしを呼んだ。
突然声をかけられたため、わたしは肩をふるわせる。何だろうかと母の方を見る。
「翡翠、ちょっと、リビングに来てね」
普段と変わらない声────いや普段よりどこか固い響きを帯びた声が母から発せられていた。その場で言う訳には行かないのか、そんなに重大な話なのか、と思いつつもわたしは、言われるままにリビングへと向かった。母は、ダイニングテーブルの近くに付けられた椅子に腰掛け、わたしが座るのを促している。テーブルの上には、アイスティーが用意されている。風が吹いたのだろうか。茶葉の匂いが、微かに部屋に漂っていた。
わたしは喉が渇いていることを感じ、アイスティーを飲もうと席に座った。
紅茶の匂いに混ざり、その場の空気には、普段とは異なる、緊張感が張り詰めていることに気づく。途端に、居心地が悪くなった。思わずテーブルの下で手を遊ばせる。
「あのね、大事な話があるの」
母は、わたしの目を見ずに、カップに視線を落としたまま、そう切り出した。
重い言葉を吐き出すのを躊躇っていることが手に取るように理解できる。わたしの胸に、漠然とした不安が広がった。やはり、大事な話なのだ。これまでの平穏を揺るがす出来事の前触れか。それとも、わたしが絶望するような内容なのか。
先程の空気から感じとっていたことが現実になっていた。
「六月の半ばに、郊外に引っ越すことになったの」
母が言葉を発したことを皮切りに、一瞬わたしの思考は完全に停止された。
引っ越し、六月の半ば────今は五月である。途切れ途切れに言葉が脳裏によぎる。
一ヶ月も満たない時間で、これまでの生活全てを忘れ、新たな場所へと移らなくてはならない。わたしの脳裏には、近隣住民の顔や、慣れ親しんだ街並み、この部屋の隅々まで染み付いた記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
今までの引越しと言えば隣町に引っ越す程度で暮らしは何も変わらなかった。
だが今回は────。
「え、どういうこと?急すぎない?なんでそんな急に決まったの?」
わたしの声は、我ながらひどく動揺していた。混乱と、わずかな怒りが入り混じった声が矢継ぎ早に母に突きつけられる。母は、ようやくわたしに視線を向ける。母の表情は、ひどく疲れているように見え、一瞬目の動きが止まる。
「許してね……翡翠。ゆるして」
母は、絞り出すような声で、そう繰り返した。その言葉は、わたしの胸を締め付けるが、やはり受け入れられない。
これまで、母がこれほどまでに憔悴した姿を見せたことは、ほとんどなかった。わたしが思うより深刻なのだろうか。
「引越し……。でも、なんでこんなにギリギリまで言わなかったの?パパには、いつから聞いてたの?昨日?今日の朝?」
またしても矢継ぎ早に繰り返されるわたしの問いに、母は視線を伏せるだけだ。何かを隠している。そのことに、わたしはすぐに気が付いた。
だが、何を隠しているのだろうか。
「一月くらいには聞いてたの。冬の、雪が降った日。翡翠が寝てからだよ」
母の言葉に、わたしの全身に冷たいものが走る。一月では、五ヶ月も前のことである。五ヶ月もの間、母は、この重大な事実をなぜわたしに隠していたのだろうか。
まだ画していることがあるのだろうか。
それがいえなかったのか。
そんな取り留めのない理由が、わたしの思考を占めていた。
「なんで……なんでそんなに前から知ってたのに、今まで黙ってたの?言ってくれれば、もっと早くから心の準備できたのに……」
わたしの声は、隠していた怒りを帯びていた。母に対する怒りというよりも、この状況に対する、やり場のない苛立ちなのだろう。
それでも母に八つ当たりしてしまった。母は、深いため息をつ砕けでしばらく沈黙がながれる。
「言えなかったの。俊蔵さん……パパの性格、知ってるでしょ?一回決めたら、何を言っても聞かないでしょ……。翡翠に言ったら、きっと反発するだろうって、そう思うと、なかなか……辛くて…」
しばらくして発せられた母の言葉は、途中からか細く、消え入りそうになっていた。父のワンマンな性格は、わたしもよく理解している。彼の決定は、常に一方的で、覆ることはない。
だが、わたしはあまり気にすることも無く、母がいえなかったことを理解するには至らない。
そのことを理由に、これほどまでに重大な事実を隠されていたことに、わたしは激しい衝撃を受けていた────。
わたしは、彼らの都合で、突然これまで積み上げてきた全てを失うことを強いられている。
わたしの思考は、再び完全に停止していた。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。ただ、心臓が異常な速さで脈打ち、呼吸が浅くなる。この部屋、やここの街など、これまで当たり前だった全てが、たった一ヶ月で、過去のものとなる。その現実が、わたしの目の前に、突然、突きつけられたことも、理解できない。
「わたし、部屋に戻る」
それだけ言い残し、わたしはリビングを飛び出した。母の返事を待つこともなく、自分の部屋へと駆け込むと、扉を閉め、その場に立ち尽くす。壁に貼られた街の景色の写真が、わたしの目に入った。星のように電気が光る夜景が別世界のもののように感じられた。
呼吸が、さらに速くなる。胸が苦しく、喉の奥が乾く。
パニック。
絶望。
呆然。
わたしの内側で、何かが崩壊してゆく音が聞こえるようにおもえた。足元に転がっていた、空の段ボール箱を掴んだ。中には、まだ何も入っていない。わたしは、その段ボール箱に、手当たり次第に物を詰め込み始めた。
書棚から本を掴み、雑に箱の中に放り込む。本の角が段ボールの側面を擦り、乾いた音がする。その音は、わたしの焦燥感を一層煽った。読みかけの本、大切にしていた写真集、何度も読み返した漫画。それら全てが、乱雑に投げ入れられてゆく。まるで、わたしの内側の混乱が、そのまま物の配置に反映されている。
机の上にあった文具類も、全てまとめて箱に投げ込んだ。そして、段ボールの底で、がちゃがちゃと音を立てる。引き出しを開け、中に入っていた手紙や小物を無造作に掴み取り、箱に押し込んだ。これまでのわたしを構成していた物が、何の秩序もなく、ただ積み重ねられてゆく。
クローゼットの扉を開け、ハンガーにかかった服を、そのまま引き剥がすように取り外した。畳むこともなく、皺になることも気にせず、ただひたすらに箱の中に押し込むと、息を吐く。布地が擦れる音が、部屋に響いている。わたしの指先は暑い外気とは対照的に、冷たく、震えていた。
窓の外は、すでに夜闇が迫っている。空は、淡い青から濃い紫へと色を変え、遠くの街灯が、点々と光り始めている。その景色は、何も変わらない。だが、わたしの内側では、大きな変化が起こって閉まった。何かが、決定的に壊れてしまった。わたしは、ただひたすらに、目の前の荷物を箱に詰め続けることしかできない。この衝動的な行動が、わたしの心の混乱を、わずかでも紛らわせる唯一の手段であるのだろうか。
どれくらいの時間が経ったか。部屋の中は、あっという間に段ボール箱で埋め尽くされた。積み上げられた箱がまるで、わたしの心の奥底に広がる、混沌とした感情の塊のように醜く映る。呼吸が荒く、心臓が未だに激しく脈打っていた。額には、冷や汗が滲んでいる。
箱詰めを終えたところで、ようやくわたしは手を止めた。部屋の中は、すっかり散らかり、秩序を失っていた。床には、荷物からこぼれた小さなものが散乱し、空になった引き出しは、虚しく口を開けている。この部屋は、もはやわたしの居場所ではない。その事実が、冷たい現実として、わたしの胸に重くのしかかる。重みに耐えきれなくなったように、わたしはその場に崩れ落ちるように座り込む。
もう時間が過ぎるのを待つしかない。逃げても無駄だ。いや、逃げられない。
漠然とした不安と、拭いきれない焦燥感が、座り込んだわたしの全身を覆い尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます