第一部 シーン2
《承己》
わたしの家の冬の夜は冷え込みが厳しい。外は深々と雪が降り積もり、窓ガラスの向こうでは、街灯の光が白く霞んで見える。リビングルームの片隅に置かれた暖炉の炎が、ゆらゆらと揺れ、壁に曖昧な影を落としていた。わたしは、いつものように読みかけの文庫本を膝に置き、紅茶を啜っていた。隣では、夫の
俊蔵が隣にいると、いつ逆鱗に触れてしまうか分からない。彼の耳に入らないように紅茶を飲み干し、本を音もなくめくっていた。翡翠は、既に自室で眠りについている。この時間はいつも怯えなくてはならない。
夫の俊蔵は前時代的で厳しく、わたしの意見を聞き入れない。翡翠には普通の父に映っているだろうが、実際はワンマンで、誰の意見も採り入れない。
時計の針は、すでに十一時を回っていた。日中の喧騒が嘘のように、マンションの一室は静寂に包まれている。時折、暖炉の薪が爆ぜる音が、空間の静けさを一層際立たせた。わたしは本を閉じ、カップをテーブルに置いた。今日一日の疲れが、じんわりと体の芯に染み渡っている。そろそろ休もうかと思い、立ち上がろうと────。
「承己」
俊蔵の声が、不意に、はっきりと響く。普段からの、抑揚のない声である。何を言う時も、彼は同じ声だ。声から状況を察することも、何を言うのかを推測することも出来ない。日常の些細なことでも、重大な話でも同じ態度である。
そのため聞くまでは安堵できない。
わたしは顔を上げ、俊蔵を見た。彼は書類から離れ、わたしをまっすぐに見据えている。
「大事な話がある」
その言葉に、胸の奥に微かなざわめきが広がった。俊蔵が「大事な話」と切り出すときは、決まって、彼の人生における重大な決定が、すでに彼の内部で下されていることを意味した。そして、その決定は、常にわたしや翡翠の意思とは無関係に、一方的に告げられるものである。
彼のワンマンな気質は、ある時から突然現れたように思う。思えば課長に昇進し、大勢の人を見るようになってからであったか。時としてそれは、わたしを深く苛立たせた。
しかし、わたしはいつしか、彼のそうした性質を受け入れる他ないことを悟っていた。
「部長に昇進が決まった。それで────」
俊蔵の口から発せられた言葉は、わたしの予想の斜め上を行くものであった。昇進。それは、確かに喜ばしいことであろう。だが、彼の表情からは、喜びや達成感といった感情は読み取れない。ただ、事実を淡々と告げている、それだけであった。
「それは、それは…」
わたしは反射的にそう口にしていた。しかし、彼の圧にその先が言えず、気づけば口を噤む。もう声が出ない。
彼の声を遮るように言ってしまったことを悔いていた。許されるだろうか。彼は気づいているだろうか。わたしの心の中には、喜びよりも先に、漠然とした不安の種が蒔かれた。俊蔵の言葉には、次なる展開が隠されている。それは、過去の経験がわたしに教えてくれた、確かな法則だ。
「それで、引っ越すことにした」
やはり、そう来たか。わたしの胸中に、冷たい鉛が流れ込むような感覚が走った。引っ越し────これまでの生活を根底から覆す、重大な転換点である。翡翠の学校はどうなるのか。わたしの生活は────。そして、この居心地の良かったマンションでの日々は、一体どうなるというのだろう。
「いつから、どこにいくの…?なんで?いま……」
わたしの声は、我ながら冷静であった。しかし、その内側では、感情の波が荒々しく逆巻いている。俊蔵は、わたしの方を見ることなく、再び手元の書類に目を落としている。その態度が、わたしの苛立ちをさらに募らせる。
「六月の中旬の予定。場所は、郊外の洋館だ。社宅として用意されたものだったけど、給料が増えるから、買取った」
彼は、まるで機械のように、事実を羅列する。そこに、わたしの感情を慮る姿勢は微塵もない。彼の言葉は、常に一方通行である。彼の世界の中で完結し、他者の介入を許さない。その頑ななまでの姿勢が、わたしの怒りの導火線に火をつけた。
「待ってください、俊蔵さん!なんで、何も相談なしに、全てを勝手に決めちゃうんですか!翡翠のことも、わたしのことも、一度も考えなかったんですか!」
わたしの声は、これまで出したことのないほどに、感情を露わにしていた。震えを帯びたその声は、静まり返った部屋に、鋭く突き刺さる。俊蔵は、ようやく書類から顔を上げ、わたしをじっと見つめた。その目は、感情の動きを一切読み取れない、無機質な光を宿している。
「相談する必要はないんだよ。これは、家族のためなんだ。より良い環境を提供するための決定なんだよ」
彼の言葉は、あまりにも傲慢であった。彼の「家族のため」という言葉は、常に彼の都合の良いように解釈され、彼の意思決定を正当化するための道具として使われてきた。わたしは、これまで幾度となく、彼のこうした態度に耐えてきた。しかし、今回ばかりは、到底容認できない。
「より良い環境?一方的に決めつけて、それが本当に『より良い』と言えるんでしょうか?翡翠には、これまで築き上げてきた友人関係があります……わたしにも、この場所での生活があるんです……。ぜんぶ無視して、あなたの都合だけで全てを押し付けるのが、家族のためだと思ってるんですか?」
わたしの言葉は、もはや怒りに震えている。感情が抑えきれず、涙が滲む。視界が、僅かに歪んだ。それでも、俊蔵の表情は、一向に変わらない。彼の顔には、わたしの感情が一切届いていないかのような、無関心な色が貼り付いている。
「感情的になるな、承己。これは、前向きな変化なんだ。子供には、適応能力があるというだろ。承己も、慣れるはずだ」
その言葉が、わたしの怒りを頂点へと駆り立ててゆく。彼は、いつもそうであった。わたしの感情を「感情的」と一蹴し、その存在を無きものにする。わたしは、目の前にあるサイドテーブルを、思わず手のひらで強く叩いた。鈍い音が、静寂を破る。
「適応能力?慣れる?あなたは、わたしたちの心を、一体なんだと思ってるんですか!あなたの都合のいい駒だとでも思ってるんですか……?」
わたしの叫びは、震えながら部屋中に響き渡る。喉の奥が枯れるような、激しい感情が込み上げてくる。しかし、俊蔵は、ただわたしを見つめているだけだ。その無言の圧力に、わたしは、次第に気力を奪われてゆくのを感じた。
結局、議論は平行線を辿ったまま、終着点を見出すことはなかった。わたしの怒りは、彼の無表情な壁の前で、虚しく拡散していった。彼を変えることはできない。その事実が、わたしを深く絶望させた。どれだけ言葉を尽くしても、彼の心を揺り動かすことはできないのだ。
雪は、相変わらず降り続いていた。窓の外は、白一色の世界が広がっている。まるで、この世の全てから色が失われたかのように、無感情な景色である。わたしは、重い足取りでリビングを後にした。背後から、俊蔵の書類をめくる音が、再び聞こえてくる。その音は、彼の決定が、揺るぎない事実であることを、わたしに冷徹に突きつけていた。
翌朝、雪は止んでいたが、空は相変わらず鉛色に淀んでいた。俊蔵の決定は、既に覆ることのない事実として、わたしたち家族の頭上に重くのしかかっている。時間の経過と共に、わたしたちの生活は、大きく、一方的に姿を変えることになるのだ。わたしは、窓の外を眺めながら、心の中で、冷たい諦念を噛み締めていた。
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