空色デイズ
千早さくら
1.April Showers
千鳥かなめは非常に不機嫌だった。電車の中という公共の場でなかったら、大声で悪口雑言をまき散らしたい気分だ。
普段であれば愛想の良い元気溌剌とした美少女なのだが、今はニンゲン熱帯性低気圧と化している。色白で卵形の綺麗な顔だちが、当人の気分がそのまま表れているせいで台無しだ。艶やかなロングヘアーの毛先近くを纏めているリボンまでひん曲がっていた。
「ったく、時間を返せっての」
口の中でぶつぶつと言い立てる程度なら、走行時の騒音がかき消してくれる。それでどうにか気を紛らわした。
親友の常磐恭子を介して紹介された他校の男子とデートした帰りなのだが、その相手があまりにひどかった。延々と続くつまらない自慢話にキレそうになりながらも、恭子への義理立てからどうにか自分を押さえ、適当に相づちをうって聞き流したものの、耐えることができたのはわずか3時間だった。
そのうち約2時間は映画を見ていたのだが、それでも短気な彼女にしては我慢した方だといえる。会って早々に相手を張り倒さなかっただけマシというものだ。
「ああ、もう、サイテー」
駅へと滑り込んでスピードを落としていた電車が、ちょうどそのとき停車し、ドアが開いた。おかげでドアに八つ当たりの蹴りを入れずに済み、なんとか公共でのマナーは守ることができた。
改札口へ向かって、かなめは歩き出す。
「明日の朝会ったら、恭子になんて言ってやろう」
しかめっ面のままドタドタと足音をたてながら、少女は頭の中で苦情のリストを作り始めた。
相良宗介は少々戸惑っていた。同僚のクルツ・ウェーバーから口頭での指導は受けていたが、なにぶんにも初めてのことである。駅に向かって商店街を歩きながら、周辺の状況に絶えず注意を払いつつ、手順を反芻する。
まずは切符の入手だ。次に駅舎に入り、自動改札を通る。そして電車に乗る。
路線図はすでに調べてあった。そのときに料金表も確認し、無意識に金額をドル換算して、
「物価の高い国だとは聞いていたが」
などと眉をしかめて、クルツに笑われた。金銭感覚にも慣れておく必要があるなと思い、店先に並ぶ商品の値札にも気を配った。
周囲を伺う少年の目は鋭く、無愛想な表情と相まって厳つい印象がする。それに反して意外なほど顔だちは整っているのだが、いかにも適当にカットされた黒髪が自分の容姿に対するこだわりのなさを示していた。
与えられた護衛任務で思いがけず母国を訪れることになった宗介だが、特別な感慨はない。なんらかの感情を抱くほど、母国に対する思い入れがあるわけではないからだ。
自分が日本人であるのも普段は忘れている。日本は彼にとってまるで未知の国だった。慣習も風習もまるで馴染みのないものばかりだ。まだ12時間を過ごしただけだというのに何度も面食らった。それこそ遠い異国に来たような気分である。
先行してこの任務の下準備をしていた情報部の人間によって、セーフハウスの用意や宗介の転校手続きはすでに済んでいた。到着したばかりのウルズ・チーム三人が自らやる必要があったのは、護衛のために必要な監視装置の設置や周囲の探索だった。あとは各自の個人的な必需品──主にビールとタバコ──を買いに出かけるくらいだ。
ただし、宗介には他の二人とは別にやらなければならないことがあった。明日から通う予定になっている高校の制服を受け取りがてら、登校経路の確認および電車の乗車方法の実地訓練をするのである。
そんなわけで、一人で最寄りの駅まで出向いてきたわけだ。周辺の地図は頭に入っていたので道に迷うこともなく、ほどなく最初の目的地が目に入った。
かなめが構内を出ると、駅前には色とりどりの傘の花が咲き始めていた。行き交う数人に一人がさす程度に、ポツリポツリと雨が降っている。まだ傘を拡げていない人の方が多いとはいえ、昨夜のニュース番組で見た天気予報を思い出して溜め息をついた。
「そーいえば森田さんが夕方から雨って言ってたっけ」
傘は持っていない。折りたたみ傘を持って行かなければ、と起きたときには覚えていたのに、出がけにはすっかり忘れてしまった。
「ツイてないときはとことんツイてないわよね」
ごちてみたところで雨が止むはずもない。一人暮らしでは迎えの当てもない。これくらいでタクシーを使うような贅沢な身分でもない。コンビニでビニル傘を買った方がいいだろうか。
駅舎の外れで屋根の下から片手を差し伸べながら、上空を窺った。まだ薄明るく、黒い雲は見当たらない。本降りになるまでにはしばらく間がありそうな空模様だ。
彼女は少々濡れるくらいを気にするような性格ではなかった。
「このくらいなら走ってけばいっか」
呟くと、バッグをしっかりと握り直した。
一息置いてから、かなめは勢いよく走り出した。
10メートル前方に立つ人物の顔を視認して、宗介は即座に携帯電話を掛けた。足は止めず、目は対象人物の姿を捉えたままだ。
その少女は、駅舎の屋根があるぎりぎりのところにいた。片手を差し出して、数分前から降り出した雨の様子を確認している模様だ。
2回目の呼び出し音で、聞き慣れた軽い調子のバリトンが耳に入った。
「駅前にてエンジェルと遭遇」
端的に要件のみを伝えると、電話の向こうの声はほんの少し低くなった。
「確かに本人か?」
「肯定だ。間違いない。尾行を開始する」
「おいおい、俺たちの任務は明日からだぜ」
相方の声音は明らかに呆れを滲ませていた。彼は仕事はきっちりこなすが、職務の範囲を区切るのもきっちりとしている。
「しかし──」
「ちゃんと情報部のヤツが付いてるって。それよかおまえさ、制服なかったら明日困るだろ。さっさと取ってこいよ」
「……了解」
逡巡したのはほんの数秒だった。クルツの言葉を聞き入れたというよりは、上官から受けた命令に準拠した。彼にとって命令内容は絶対的だ。それが明日からというのであれば従うべきだろう。
電話を切った宗介は、そのまま何事もなかったように駅へと近づいていった。
少女は顔を上げで颯爽と走った。
少年は前方を見据えて快活に歩いた。
夕暮れの雑踏の中で、少女と少年がすれ違う。
こうして、二人の物語は始まった。
了
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