第16話 その手のぬくもりの奥へ
「なあ、
「うん?」
――お前、避けられていないか?
口をついて出そうになった疑問を、
「どうしたの? お兄ちゃん」
百衣は小鳥のように首を傾げた。無邪気な笑顔に、万尋は視線をそらし、言葉を濁す。
「い、いや。べ、別に。なんでもないよ。……素振り、続けようか」
無理に作った笑顔は、どこかひきつっていた。百衣は少し考え込むような素振りを見せたが、やがて静かにうつむいた。そのまま木刀を握り直し、振り始める――けれど、その動きからは先ほどの勢いが消えていた。
「……大丈夫か?」
「……うん」
曇った声に、万尋は焦る。目だけで熊先生の大きな姿を探すが、どこにもいない。さっきまでいた場所には、道具箱がぽつんと残されているだけだった。
「ちょっと待っててくれ。素振りは続けるんだぞ。俺が言ったとこ、意識してな」
「うん、わかった」
百衣をその場に残し、万尋は他の子どもたちが集まる場所へと向かう。歩き出した瞬間、周囲にさざ波のようなざわつきが走った。目には見えないが、空気が確かに揺れていた。
「
少し離れたところにいた弟を見つけ、声をかける。何人かの女の子たちに囲まれていた千晶は、不思議そうに顔を向けた。
「いいけど……どうしたの? 顔、怖いよ」
「ちょっとだけ話せるか?」
千晶が立ち上がろうとした瞬間、女の子の一人が袖を引いた。
「千晶くん、あの万尋って人と知り合いなの?」
「うん、
その瞬間、女の子たちの顔が凍りついた。けれど、次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように笑顔が広がる。ぎこちないその笑顔に見送られて、兄弟は土手の道へと上がっていった。
「なあ、あの百衣って子……馴染めてないみたいだな」
万尋が切り出すと、千晶は目を伏せた。
「馴染めてない? 百衣が?」
「……ああ。お前から一言、かけてはくれないか。取り巻きの女の子にでも――年上の女の子たちが声をかけてやるだけでも、きっと違うと思うんだ」
「嫌だ」
即答だった。伏せられた目の奥から、深い影がにじんでいた。
「あんなやつ、ずっと一人ぼっちでいればいいのに。……万兄は、見た目に騙されてる」
その言葉に、万尋は言葉を失う。千晶の口から「嫌い」なんて言葉を聞いたのは初めてだった。
「……何があったんだ?」
静かに尋ねれば、千晶は薄く笑った。
「万兄も見れば分かるよ。僕に対する、百衣の“目”。最初はこっちも気を使ってた。でも――」
その時だった。耳を裂くような悲鳴が、河川敷に響いた。
振り返ると、そこにいたのは一匹の痩せた野良犬――いや、ほとんど狼のような巨体だ。その牙が向けられていたのは、百衣だった。
「……っ!」
考える暇などなかった。万尋は全身で土手を駆け下り、叫び声をあげながら飛び込む。
百衣は木刀を取り落とし、尻餅をついたまま動けずにいた。鋭い牙がじわじわと迫る――。
万尋の木刀が、野良犬の胴を横薙ぎに叩きつける。犬は悲鳴のような声をあげて、河川敷の奥へと逃げていった。
「大丈夫か!」
百衣は、泣き顔のまま何度も頷いた。だがその左手には、鮮やかな血が広がっている。遠巻きに見ていた子どもたちを見やって、万尋は胸の奥が締めつけられる。誰も、動かなかった。気づかなかった。――そして、自分も。
「ごめん、ごめんな……!」
謝るしかなかった。万尋がそう口にすると、百衣はぶんぶんと首を横に振る。
――万尋のせいじゃない、と言ってくれているみたいで、余計につらい。
千晶が道具箱を手に走ってきた。しゃがみ込んで、百衣の手にそっと触れる。
「傷、見せて」
だが百衣は――その手を、強く振り払った。
「……お前……!」
万尋は思わず声を荒げた。百衣の全身は震えていて、目からは涙が止めどなく流れ落ちていた。立ち上がった彼女は、何も言わず、ただ逃げるように土手を駆け上がっていく。
「なんなんだ……」
呆然とつぶやいた万尋に、千晶はふっと鼻で笑った。
「……あの子、いつもそうだよ。最初からずっと。僕のこと、最初から嫌ってる。だから僕も――嫌いなんだよ」
その声は、年齢に似合わないほど冷たかった。
⋆。゚✿。⋆。 ゚❀゚。⋆。゚✿。⋆
他の子どもたちのことは、信頼する弟に任せた。
万尋は手当て道具の箱を脇に抱え、百衣のあとを追って春の小道を駆け抜ける。
百衣は、ただ笑顔が可愛い無邪気な子だと思っていた。だが、さっきの彼女は千晶の手を振り払った。
優しくて温厚な千晶が、百衣にだけ冷たい理由も、少しだけ分かった気がする。
それでも、万尋には目の前の現実が信じられなかった。
ようやく、とぼとぼと歩く後ろ姿を視界にとらえた。
「待てよ!」
声を張ると、百衣は肩をびくりと震わせ、振り返る。
万尋を見たその瞬間、弾かれたように走り出した。
舌打ちしたい気持ちをこらえ、万尋も走る。
距離はみるみるうちに縮まり、やがて百衣は観念したように立ち止まった。
そこは、万尋たちの家の近所。
小さな住居が肩を寄せ合うように並ぶ、細くて貧しい路地だった。
治安は決して良くない。
「なんで、お兄ちゃん……ももを追いかけてきたの」
百衣が不思議そうな顔で問いかけてくる。
万尋は思わず怒鳴りそうになったが、ぐっとこらえた。
「手当てしないとダメだろ。……その手、使えなくなってもいいのか? 刀剣術師になりたいんじゃなかったのか」
少し脅すような言い方になってしまった。
百衣は顔を蒼くしてうつむく。
「……とにかく、座れ。初めの処置が大事なんだ」
万尋が地面に箱を置こうとしたとき、百衣が黙って指をさす。
それは周囲の家より一回り小さく、ぼろぼろの家だった。
「あの家がどうした?」
「……ももの家なの」
百衣は返事を待たず、家へ進んでいく。
建てつけの悪い戸に手をかけた瞬間、顔をしかめた。
「こら、左手は使うな」
万尋が咎め、代わりに戸を開ける。
薄暗い土間に足を踏み入れると、古びた木の匂いが鼻をくすぐった。
段差に腰を下ろし、手当て道具を箱から取り出す。
百衣の手をとり、そっと傷を検める。
派手に血が出ていたが、幸いにも傷は浅い。
「腱は無事だ。よかったな。化膿しなければすぐ治る」
「う、うん。ありがとう……」
百衣がほっとしたように笑う。
その顔を見て、万尋の胸が苦しくなる。
「……ごめんな。もしかしたら、傷あとが残るかもしれない。責任は……取れないけど……本当に、ごめん」
「助けてくれたのに、なんでお兄ちゃんが謝るの?」
百衣はにっこりと微笑む。
「それにね、傷は刀剣術師の……くんしょー、なんだよ」
無邪気な言葉に、胸が締めつけられる。
「百衣は、強くていい子だな。怖くなかったか?」
「ちょっとは怖かったよ。でも……」
言いかけた言葉は、ぐしゃりと崩れた。
「……っ、く……」
百衣の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
着物の袖で必死にぬぐう姿が、切なくてたまらない。
「お父さんが言ってたの。泣いちゃダメだって……だから、ももは……っ」
「わかった、わかった。百衣は、よく頑張ったよ」
万尋はそっと頭を撫でる。
百衣の肩が震え、すすり泣きが家の中に静かに響いた。
(……昔の俺を見てるみたいだ)
強がりで、涙を見せたくなくて、でも本当は誰かに助けてほしくて――。
万尋は思い出す。まだ父が元気だったころ、言われた言葉を。
「泣いてはいけない」
やがて百衣は泣き疲れ、万尋の腕にしがみついて眠ってしまった。
(どうするかな……)
このまま置いていくのも心配だ。
けれど、千晶に任せた学舎も気になる。
試しに体を動かそうとして、断念した。
百衣の手が、小さな赤子のように、ぎゅっと握られていた。
すやすやと寝息を立てていて、起こす気になれない。
仕方なく、そのまま片手を伸ばし、木戸に寄りかかる。
息を吐いて、体の力を抜いた。
(……しばらくは、ここにいよう)
黒ずんだ木の天井を見上げながら、万尋は考える。
(百衣は、なぜ千晶にだけあんな態度を?)
腕に感じる小さなぬくもりが、ますます疑問を深めていく。
千晶は、誰よりも優しい。
十年以上、共に育った万尋が一番よく知っている。
虫も殺せぬほど気弱で、誰かが困っていれば手を差し伸べる。
そんな千晶が、年下の女の子に嫌われる理由なんて、思いつかない。
千晶の言葉どおり、百衣が“嫌な子”だとも思えない。
まぶたが重くなり、意識がぼやけてきた。
(……そうだ。知る方法がある)
自分は
そして、百衣は隣で深く眠っている。
その気になれば、何が起きたのかを知ることはたやすい。
ただ――。
(無断で覗くのは、百衣に悪いか……)
意識は、徐々に暗闇に沈んでいく。
けれど万尋は、その好奇心に抗えなかった。
目を閉じ、眠りに落ちる。
百衣の夢の中へと、足を踏み入れていく――。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
・百衣と千晶のすれ違いが切なかった
・続きが気になる……!
そんなふうに思っていただけましたら、
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次回、百衣の夢の奥に眠る真実が明らかになります。
引き続き、応援していただけたら嬉しいです。
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