第2章 その刃が守るもの

第7話 鈴の音、風の音

 りん……りん……。


 少し動くたびに、首元で小さな音が鳴る。可愛らしく、けれど場違いな音色。


 ――こうすれば、迷子にならないでしょ。


 そう言って、有珠ありすは自分の首に鈴をつけた。


 始めは正直、鬱陶しかった。けれど、いつの間にか慣れてしまった。むしろ、これも悪くないと思い始めている自分がいるのが、少し怖い。


 有珠と出会ってから、もう十年以上になる。そのあいだに癒やしてきた人間の数は、とても数えきれない。仕事は順調だ。けれど終わりは、どこにも見えない。


「ここね」


 有珠の張り詰めた声に、ただ頷いて返す。りん。鈴が鳴いた。その音が、妙に間の抜けた響きに思えた。


 空気が、どこかおかしい。鼻をつくような嫌な匂いが、かすかに漂っていた。視線を向けた先、岩が転がる河原の向こうに、どろりと濁った川が流れている。川というより、動く泥の帯だった。底は見えず、流れはよどみ、そもそも水かどうかすら疑わしい。


 その流れの中に、一筋の赤があった。まるで糸のように細く、けれど鮮やかな赤。それを目で追っていくと、河原に人影が見えた。


 複数の人間が、折り重なるように倒れている。赤い糸のように見えたものは、彼らの身体から流れ出た血だった。濁った川に溶けきらず、ひとすじの筋を描いて漂っている。


 血の匂いだったのか――そう気づいた。


 倒れている遺体は、六つ。どれも冷たく、すでに魂の抜けた抜け殻だ。そのうち一体の背には、矢が一本突き立っていた。感情のない弓矢。卒塔婆のように真っすぐ立ったそれは、誰かが命を奪うために放ったものだとは思えないほど、無機質だった。


「ひどい……」


 有珠が小さくつぶやく。背負っていた竹竿を、無造作に下ろした。その動作には、悲しみでも怒りでもなく、淡々とした静けさがあった。


 何をするつもりなのか――そう思った瞬間、背後から近づく気配を察知する。霧の向こう、岩を踏みしめる下駄の音。にじむような足音が、こちらへと近づいてくる。


 空気が一段と重くなる。血の匂いも、濃く。


「下がってて」


 有珠は一歩前に出て、竹竿を正眼に構える。自分は黙って頷き、言われた通り後方へ下がった。茂った霧の中、まだ見ぬ敵に向けた気配が張り詰めていく。


 ――りん。


 場違いなほど澄んだ鈴の音が、風鈴のように首元で鳴った。涼しげで、のんきなその響きが、かえって緊張を深めていく。


 そういえば、とふと思う。


 そういえば、うつつの世界にも、もうじき夏がやってくるはずだった。




 ⋆。゚✿。⋆。 ゚❀゚。⋆。゚✿。⋆




 軒下に吊るされた風鈴が、涼風に揺れて澄んだ音を鳴らす。その音色に、小さな鈴の音が重なった。白いうさぎが、ころころとした足取りで近づいてくる。


「しっしっ。退け、退け」


 万尋かずひろは慌てて立ち上がり、手を振って追い払おうとする。しかし兎はお構いなしに歩を進めてくる。


 まぶしい日差しの下、万尋は額に汗を浮かべながら天敵をにらみつけた。


「命が惜しけりゃ、これ以上近づくな。退かねばどうなるか、わかってるんだろうな?」


 虚勢を張ってみるが、兎に通じるはずもない。さすがに小動物相手に竹刀を振りかざすわけにもいかず、それでも手が腰の刀へと伸びてしまう。


 後ずさった万尋の足が、いつの間にか軒下の端に届いていた。兎との距離は、あと数尺。嫌な汗が額を伝う。


(もう、抜刀するしか……)


 焦りのなかで柄に手をかけた、そのときだった。


「……なにやってるの?」


 がらりと障子戸が開き、有珠が縁側に姿を見せる。呆れたような視線を向けられ、万尋は目に見えて狼狽えた。


「こ、この白兎が、いくら言っても言うことを聞かなくて……!」


「まさか木刀で追い払おうとしてた、なんてことないよね?」


「う……」


 図星すぎて、言葉が喉に詰まる。


 有珠はお盆を縁側に置き、庭の草履を履いて軽やかに腰を下ろす。兎はすでに万尋の脇を離れ、有珠の膝の上にちょこんと乗っていた。


「からかわれたわね。反応が面白いから、飛白はこういうことするの。人語、わかるのよ」


「へえ……だったら、かなり性格悪いな、その兎」


 万尋の皮肉に、有珠はくすりと笑う。


「まあね。飛白は、人間があまり好きじゃないから」


 有珠は湯呑をひとつ勧めながら、じっと万尋の顔を見る。


「どうしたの?」


 不思議そうに尋ねられ、万尋は薦められるまま茶を口にした。


「……いや、別に。ただ、ありがとな。わざわざ手伝いに来てもらって」


「構わないよ。こっちこそ、頼みに来てくれて嬉しかったし」


 万尋がやって来たのは、川沿いに建つ木造平屋の一軒家だった。風通しも景色もよく、万尋や周平の家の数倍はある広さ。華美ではないが、静かで落ち着いた家だ。


「でも、あの地図でよく迷わず来られたね」


「確かに絵心は壊滅的だったが……まあ、川沿いの家なんて限られてるからな。――まさかとは思うが、ここに一人で暮らしてるのか?」


 有珠はこくりと頷いた。


「不用心だぞ。俺みたいな得体の知れない奴を、こんなご時世に家に入れるなんて」


 やや重たく言えば、有珠は首をかしげた。


「それはこっちのセリフじゃない? 万尋の方がよっぽど不用心」


「そんなことはない」


「あるって。……ところで、そのお茶、そろそろ効いてきた?」


「ぶっ……!」


 万尋は思い切り茶を吹き出し、体を折って咳き込む。


「な、なに入れた……っ!」


 苦しげな問いに、有珠は悪戯っぽく笑った。


「やだなぁ。冗談に決まってるじゃない。客人に毒入りの茶なんて出すわけないでしょ。それに、奪うほどの財産もなさそうだし」


「一言多いぞ、そこ!」


 真顔で睨む万尋に、有珠は肩をすくめて笑う。確かに自分が不用心だった。今さら吐き出すこともできず、腹をくくるしかない。


「ほんとに、冗談だから。……でも万尋って、一生懸命で見てて飽きないよ。飛白がからかいたくなるの、ちょっと分かる」


「面白いで済ますな。こっちは本気で命の危機を感じたんだからな」


「ごめんごめん」


 悪びれもなく笑う有珠を見ていると、怒る気にもなれない。もし有珠に本気で害意があったなら、自分はとっくに死んでいただろう。それでも、負けを認めたくなくて話題を逸らした。


「ところで、あの風鈴。珍しい意匠だな。どこで手に入れたんだ?」


 視線を上げると、有珠もつられて見上げた。透明な硝子の風鈴が、光を透かしてきらきらと揺れている。


「ああ、これ? 私の故郷から持ってきたの。硝子って素材でできてるのよ。きれいでしょう?」


 有珠の故郷は、きっとこの土地から遠く離れた場所なのだろう。中で揺れる小さな水晶が、涼しげにカラカラと鳴る。その音に耳を傾けながら、万尋はふと、気づかぬうちに暑さが和らいでいるように思えた。


「そうだな。それより……さっきの客人はもういいのか?」


 この家を訪ねたとき、有珠はまだ仕事中だった。そのあいだ万尋は、白兎とともに縁側で待たされていた。


「ああ、大丈夫よ。そう重症でもなかったし、悪夢を宝珠に吸わせて終わり。毎日同じことの繰り返しよ」


 有珠はそう言って、息をつきながら背伸びをする。万尋もつられて屋根の向こうを見上げた。


 まっすぐ張り出した軒の先に、果てのない空が広がっていた。


 万尋の家のまわりでは、こんな空は見られない。ひしめく屋根の稜線に、いつも空は切り取られている。それに比べて、ここの空はどこまでも広く、遮るものがない。


「この空も、この世界も、そして人々の夢も変わらない。人の中から悪夢が消えることなんて、ないのよ」


 有珠はぽつりと呟く。声は静かで、どこか諦めに満ちていた。


「人が死ねば悪夢が生まれる。人が生きていれば悪夢が生まれる。……結局、何も変わらない」


 どういう意味かと聞きかけたとき、有珠がふいに振り返った。さらりと肩にかかった髪が、涼風に流れる。


「いらっしゃい」


 穏やかな声につられ、万尋も横を向いた。二十尺ほど先、砂利道の上にひとりの青年が立っている。年の頃は二十代前半。黒曜石のような瞳で、夢見るようにこちらを見ていた。


「ここは……? 君たちは、一体……」


 有珠は軽やかに立ち上がり、袖を返して一歩進む。


「私は夢幻術師、有珠。ここは私の家よ」


「夢幻……術師……?」


 男の声も、表情も、どこか抜け殻のように淡い。なかでも印象的だったのは、その目だった。眠っている人間の瞼を無理にこじ開けたような、虚ろな光。


「あなたの悪夢、私が祓ってあげる。……こちらに来なさい」


 涼やかな声でそう語りかけるが、男はすぐには応じなかった。しばらくの間、無言のまま立ち尽くしていたが、やがてかすれた声で返す。


「夢幻術師なら……俺の悪夢を祓えるのか。祓ってくれるのなら、頼みたい。これは、自分の罪から生まれた悪夢だから……」


「もちろん。あなたが望むのなら、どんな悪夢でも祓ってあげる。……自分で言うのもなんだけど、私はかなり優秀だからね」


 有珠は大口を叩いて、男に手を差し出す。その堂々とした態度に万尋が呆れている間に、男は恐る恐るその手を取った。伏せた目の奥には、濃い影が揺れている。


「お願いできるか……?」


「ええ。来なさい」


 有珠はそう言って男の手を放し、縁側に戻ってきた。


「正面の扉、開いているわ。そちらに回ってもらえる?」


「あ、ああ……」


 男はゆっくりとうなずき、庭石を踏みしめながら表へと回っていく。見送る万尋は、やや首を傾げる。客を招くなら案内してもいいのではないか。けれど有珠はそれをせず、草履を脱いで静かに上がった。


 障子を開け放ち、畳の上を進む。座布団を並べると、有珠は床の間へ向かう。そこに置かれていた宝珠を両手で持ち上げる仕草は、まるで神事のように厳かだった。


 万尋は縁側に座ったまま、それをじっと見ていた。


(……今のうちに、盗めるだけ盗まなくちゃな)


 仕事を手伝う代わりに、夢幻術師の技術を教えてほしい。そう頼んだとき、有珠はあっさり了承してくれた。


 とはいえ、万尋にできるのは「夢の中に入る」ことだけ。技術を学ぶには、できる限り近くで観察しなければならない。夢幻術師は数が少ない。望めば誰でもなれるわけではない、選ばれた才能だ。


 万尋がその才能に気づいたのは、数年前。弟の夢の中に、偶然迷いこんだときだった。自分が誰にも負けない力を持っていると知ったその日から、万尋は夢幻術師として生きる決意をした。


 家族を養うため。稼ぐため。そしてもう一つ――それは、まだ言葉にできない何かだった。


 ――りん。


 首元を探るが、白兎の姿は見当たらない。ふと見上げれば、風鈴がひとつ。空のように淡い青の硝子に、小さな飾りが揺れている。風が吹くたび、涼やかな音を響かせていた。


 ――りん。


 心の底に沈んでいた波が、ふと静かになった気がした。




 ⋆。゚✿。⋆。 ゚❀゚。⋆。゚✿。⋆




 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 鈴の音が響くたびに、誰かの夢がそっと開かれていく。

 そしてまた、新たな夢が始まります。


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