第2話
あれから、ゆき子は暫く、気がぬけたような状態になっていた。
確かにビデオの続きは気になってはいるが
怪しげな宗教団体に足をつっこみながら暮らしても面白くはない。
もう、あの件は、忘れよう
不愉快な思いを払拭するかのように、仕事に打ち込んでいた、ある日
『立花く〜ん、また、電話だよーっ! 全く!
何回かけてきたら、気が済むんだよ?この人!
立花、お前、悪い連中とつるんでるんじゃないかあ〜? 』と、
にが虫を、すり潰したような顔になった上司から、睨みつけられながら、ゆき子は、電話を転送された。
電話のお相手は、例の宗教団体の連中からだった。
「二度と私は、そこへは行きません!」
何度、突っぱねても、また、人を変えて
けたたましく、しつこく、立花ゆき子を出せと、
職場のほうに電話攻撃が始まった。
毎日毎日、一日に何度も、人を変え、別の人間からかかってくる電話に対し、ゆき子は、うんざりしながら、いつも、同じ答えを返した。
『二度と、行くつもりないから、もう、かけないで下さい! 』
そう言って、自ら、ガチャンと、電話を切る。
それでも、人を変え、また、同じように電話がかかる。それの、繰り返しだった、、、
要件は、『団体に戻れ』と言いたいようだ。
そして、いったん電話に出てしまうと話が長い。
いくら、今、仕事中だから、宗教の話は出来ないと訴えた所で、
『神があなたを待っておられるのです』
から始まり、こちらから、電話を切らなければ、
『あなたが今されているお仕事より、もっと大切な任務がある。 ということを、あなたは、見失っていらっしゃる、、、』
と、話が延々と続き、エンドレス状態になるのだった。
要は、ゆき子に、今の仕事を辞めさせ、自分達の団体に引き入れたいのだ。
これには、さすがに舌を巻いた。
ほとほと参ってしまった。
それからというもの、、、
職場の人達にも怪しまれはじめるようになっていった。
『どーしたのー?立花さん! 急に色んな人から、一気に電話かかり始めたけど、この人達、あなたの知り合い?』
『スミマセン。 実は宗教団体の方みたいです』
『えーっ?! 立花さん、宗教はいってるんだあ〜っ!』
と、フロントの女は大声で言った。
しまった! ここでは、言わないほうが良かったかな?
この、明地純子という女は、フロントを牛耳る旅館で1番のオシャベリと言われている鼻つまみ者だった。
ゆき子は、途方にくれていた、、、
『こんなに、何回もかけられたら、営業妨害じゃないの〜! あなたっ、いったい休日に、何をしてるの?』と、明地純子から毎度、キツーくお咎めを受けた。
仕事が手につかない位、一日に数回かかってくる電話の件もさることながら、
老舗旅館の仕事は、朝早くから、夜遅くまでかなりの重労働だった。
夕方になり仕事の合間を見計らい、旅館の温泉に、そそくさと入り、お風呂を出ると又、仕事に戻らなければならない。お化粧などしている暇はない。スッピンで仕事場に戻らないといけないことも、度々あり苦痛だった。
せめて、もう少し、時間のゆとりが欲しい所だが、
そこは、客商売。
お客様のいちばん空いている時間を見計らって従業員はさっと風呂に入り、さっと出ないといけない。
せっかくのヒノキ風呂温泉に入っても、心は、ちっとも休まらなかった。
ゆき子が居住している寮には、お風呂がついて無い。
当時は、シャワーも無かった。
それもそのはず、目と鼻の先にある旅館に、立派なヒノキ風呂があるからだ。
この旅館の温泉に、無料で入れる特権は、嬉しいが、従業員が入れる時間帯が決まっている為、
仕事で忙殺されている時は、お風呂に入れる時間を逃してしまうのだ。
一日中、クッタクタになりながら、その日、風呂に入るタイミングを逃して、風呂に入れないまま、翌日を迎えるのは、余計に疲労が身体に蓄積されているように感じた。
さらに、宗教団体の女達が、ひっきりなしに職場にかけてくる電話のストレスと相まって、疲労はピークに達し、ゆき子の身体は、悲鳴をあげていた。
ゆき子の個人宅に電話をかけてこないで、あえて、仕事場に何度も人を変えながら、かけてくる。
こんな卑劣なやり方をしておいて何が『神』だっ!
最初、宗教団体とも、つゆ知らず、勤め先の話を狩田しげるに話したのが間違いだった。
まさか! こんな事になるとは、思いもしなかったから。
ゆき子は、だんだん、この旅館で仕事をしていくのか苦しくなってきた。
身体も疲労困憊して、朝も起きれず遅刻を毎日のように繰り返すようになっていった。
遅れて仕事場へ行き、タイムカードを押す度に、
『今、何時なのか、わかっとるかっ!』と上司から強く怒鳴られた。
お昼の休憩中だけが、拠り所だと思っていたが、その貴重な休憩時間に、上司達のお弁当を買いにいくよう頼まれるのは新入りのゆき子だった。
配達は行っていないが
老夫婦が営業している、美味しい!と評判の弁当屋が近くに出来たのだ。
そこの弁当を買ってくるよう、、ゆき子に頼まれる。 貴重な昼休みの時間、買いに行って、長蛇の行列のあとに並び、弁当をもって帰った時は、食べる時間も、あと15分位しか残ってないため
かけこむように食事をすませなければならなかった。
勿論、食べるだけで、『ゆっくり休む』ことなんて出来る時間など無い。
買ってきてーと、上司に頼まれたら、嫌とは、言えなかったのだ。 これも、かなりのストレスで、胃が痛かった。
ホントは、一時間の昼休みくらい、たまには気分を変えて、何処か外食に行きたかった。
休み時間もろくに無く、毎日が、毎分毎秒、ラットレースの上で、走らされている気分だった。
疲労がピークに達したある日、
そーだ! 辞めよう! 辞めたら全て解決する!
辞めたらいいんだわ!
ゆき子は、決意した。
すると、パア〜っと視界が晴れ、なんとも清々しい気分になるではないか、、、、、
その時のゆき子は、辞めた後の事など考える余裕などなかった。
まだ、入社して1年も経ってないが、仕事に楽しさや、やり甲斐を見い出す事が出来なかったのだ。
『苦』ばかりに、フォーカスがいき、自分と向き合う時間すら持てなかった。
ココを辞めたら、この窮屈で地獄のような世界から、抜け出せる。
そして、
あの、いかがわしい宗教団体からも、キッパリと、手を切る事が出来るぞ。
幸い、本籍がある、実家のことまでは、宗教団体の人には話していないため、実家までは、魔の手も伸びてこないだろう。住所も電話番号も分からないはずだ。
ゆき子は、遂に辞表を提出する羽目となった。
あれ程、親元を離れたかったゆき子だったが、こうなってしまったからには、ひとまず、親元に身を寄せるしか方法が浮かばなかった。
バタバタと、引っ越しを済ませ、また、両親との同居が始まった。
当然、親は、それ見たことか!と、言わんばかりだった。
ゆき子は、宗教団体のことは、いっさい親には、話さなかった。
老舗旅館の仕事は、想像以上にハードで、身体も精神もついていかなかったのだ。とだけ、説明している。
『あんたっ! これから先どーするのーっ?』
『役立たずですらい! ゆき子は、、、』
母親はそんな風にののしり、帰ってきたゆき子に対して快くは思ってない様子だったが、父親は、よく帰ってきた!と、一人娘のゆき子を手元に置くことを喜んでくれた。
『お父さんは、いっつも、ゆき子には甘いんじゃけん!』
と、母親は娘のゆき子に、ヤキモチを焼いていた。
暫く、ゆき子は地元で職を捜しながら、家事手伝いをすることにした。
さーて 次は 何をしようか?
1年足らずで、仕事を辞めてしまったゆき子は、まとまった貯金も、さほど作る事が出来ていない。
居候の身は、肩身が狭い。
早く、次の仕事を見つけなければ、、、!
そんな風に焦りながら、暮らしていく中で、同居していた祖母の奇怪な行動が目につくようになっていった。
同じ屋根の下、祖母は、長い廊下を挟み、ゆき子達とは別の部屋で暮らしていた。
ゆき子に対しては、優しいお婆ちゃんだったが、母と、祖母は、嫁姑の確執があり、それを避ける為、
祖母の部屋と台所は、長い廊下を挟み、離れている。
一軒家だが別世帯で暮らしているのだった。
ある日、祖母は、いつものように、押し車をおして買い物から帰ってくると、同じ食パンだけを山のように、いっぱい買い込み、それをトイレットペーパーを置く棚の上に押し込んでいた。
どうやら、食パンと、トイレットペーパーを間違えたらしい。
また、ある時は、自分の便をご丁寧に新聞紙にくるみ、引き出しに大切にしまうようになった。
何か? 臭いがする!
母も、ゆき子も、祖母の奇怪な行動に異変を感じている頃、近所の方からも、指摘されるようになった。
『立花の奥さん、何か最近おかしいよ?』
『前は、よう話しよったのに、私の顔見てもわからんのよ〜』
『何を話しても、つじつま合わん事ばっかり、いいよるけんな〜』
祖母は、認知症になった。
『アルツハイマー型認知症』がジワリ、ジワリと進行していった。
そして、最後は、寝たきりになっていった。
無職で居候の身であるゆき子は、直ちに家族から、この祖母の自宅介護を仰せつかったのだった。
介護保険というものが確立された有り難い時代だったともいえる。
ゆき子の住んでいる田舎では、当時、自宅で介護をするのが、主流だった。
施設に預ける となると、
あの家の嫁は、姑の介護も放棄して、楽をしているなどと陰口をたたかれる事も、よく聞く話だった。
老人介護は、思った以上に大変だった。
特に段差のある、一軒家での入浴介助を続けていると、ゆき子は、ある日、突然フライパンすら持てなくなった。腱鞘炎になり、腰痛にも悩まされた。
ジワジワと、介護者の身体にも負担がかかることを身体で思い知った。
ゆき子一人で介護するのは手に負えなくなり、母と交代で、休みの日には、父も手伝ってくれるようになった。
夜中の徘徊には一番困った。
雨戸を閉めていても、ちょっと、目を離した隙に、ばか力で、こじあけ、
オムツを自らの手で外し、スッポンポンの状態で外に飛び出し徘徊しようとする祖母を、なだめ自宅に連れて戻るのは、一苦労だった。
昼夜逆転した寝不足の生活が、さらにゆき子の身体にトドメを刺す!
昼間も、頭がぼーっとし、1日中、身体がだるくて重かった。
それでも会社勤めではなく、ココは一応、ゆき子の自宅である。
身体は、相変わらずしんどいけど、
他人様から、使われるより、やや、気楽さはあった。
それから、
3年程の介護生活の末、祖母は、寝たきり状態になり、最後は眠るように静かに亡くなった。
ゆき子の介護生活も、終止符がうたれ、ある日のこと、父親がゆき子に見合い話をもってきた。
しかし、いきなり見合いだ。結婚だ。と言われても、全くピンと来ない。
ぜんぜん気が乗らない
幼い頃から、母親の悲鳴を聞いて育ったゆき子である。そもそも結婚にメリットがあるようには思えなかったのだ。
ゆき子の母親は、裏と表をしっかりと使いわける聡明で、したたかな女性だった。
長男の嫁として嫁ぎ、家の中をキリモリしてきたが、
盆、正月になると、親戚一同が、家族を連れて、ゆき子の実家に集まるのが恒例行事だった。
母親は、その度に悲鳴をあげていた。
大人数が、泊まりがけでやってくる度、布団を干し、食事のメニューを考えて人数分作り、接待をし、
夏休みともなると、一カ月滞在する親戚も居た。
気疲れで、ヘトヘトになり、親戚が帰ったあとは、いつも、倒れこんでいたのだった。
祖父も厳格な人物だっただけに、両親とも、この祖父には頭があがらず、気苦労ばかりしていた母親の姿を、子供の頃から見ていて、何としんどい家庭なんだろう?と、漠然とした重苦しさを感じていたのだ。
その、厳格な祖父の遺言で、
『葬式の出せん家を作るもんじゃあない!』との言葉どうり、自宅で、葬儀が出せるように設計して作った広い広いお屋敷である。
何かごとにつけ、親戚が、この広い家に集まり、何泊かしていく度にずーっと接待が続く。
長男の家に嫁ぐと、母のように、悲鳴を上げながら気苦労の絶えない苦しい暮らしになる。
家長制度が残っている田舎で育ち、
この大変さを、幼少期から、刷り込まれてきたゆき子にとって
『結婚 イコール 悲鳴をあげる恐怖』というふうに結びついてしまったのだった。
ゆき子は、ある日、率直に、父に聞いてみた。
『ねえ、お父さん?
人間って、何で結婚するの?』
『お母さん見ていても、いつも、ヒステリー起こしてさ〜、、、 全然、幸せには見えんけど?』
『私、あんまり結婚って、したくなーい!』
こうして、素直に気持ちも伝えた。
父親は、暫くの沈黙の末、答えた。
『結婚するか、せんかは、お前の自由じゃが、
人並なことをしとらんと、人間は、年をとったら、卑屈になるもんなんじゃ! 』
そっかぁ〜! 年をとったら?
人並なことをしてないと?
人間は 『卑屈になる』 のか、、、?
その時、ゆき子は27歳になっていた。
父が言ったこのフレーズが、不思議と、ずうっと頭から離れない。
ゆき子のクラスメート達も、次つぎと結婚していき
ハネムーンの写真入りのハガキを頂くことも多くなってきた。
〇〇ちゃん、遂に嫁入り先決まったんだって!
と、母親までが焦りを見せ始めるようになった。
見合いくらいしてもいいじゃないか!という父親の勧めにゆき子は、渋々、応じることにしたのだ。
ある日、父親の計らいで役人の若い男達が集まっている居酒屋に連れて行かれた。
お前の女友達も、誘って連れて来い。との、父からの命令でゆき子の女友達も4人誘い、早速、店に繰り出した。
父親と同じ年齢のオジサンも数名居て、これは
『見合い』というより、『飲み会』だった。
ゆき子の父親が同伴の、大人数見合い。
店に入ると、待ち合わせ時間前には、男性陣はみんな来ていて、初対面でも、かしこまった雰囲気じゃなく、ざっくばらんな感じだったので、周りの雰囲気に、程よく打ち解けることが出来、穏やかな感じがした。
だが、ゆき子本人は、自分の父親も交えての懇親会のような席に行くと緊張してしまっていた。
ゆき子交えて、女5人、若い男5人
あと、
年配のオジサン2人と父親というメンバー
計13名
これはまさにフィーリングカップル5対5だな。
品定めをするかの如く、男達とバチバチ目が合った。
その中の一人のオジサンが、ゆき子の父親に向かって
『立花さん、今日は、やけに大人しいですねー
娘さんが居るといつもと違う!』と、冷やかした。
皆さん品がよく、若い男達は、みーんな大人しい。
目が合うと、静かに微笑み返してくれるが、さほど盛り上がりはない。
年配のオジサンが、どーにも笑えないような、つまらないオヤジギャグを連発し、その場を、盛り上げようとしてくれていたけど、かえって回りはシーンとなってしまう。
食事が終わると、二次会には、お決まりのカラオケスナックに行った。
ここでは、歌が好きな人は目がランランと輝き、さっきまでの静けさとは、打って変わりマイクを離さない人物が現れた。
『今夜は、立花さん親子の為に、歌を届けましょう』等と言って盛り上げてくれた。
今夜の飲み会は、あくまでも、彼氏、彼女捜しだったのだ。 しかも、ゆき子の父親同伴で、、、。
改めてゆき子は、自分はこういった大人数の場所が苦手なんだなーと、確認できた。
帰りのタクシーの中で、父は、ゆき子に聞いた。
『ゆき子よ? お前の気に入ったやつは、
誰か? おったか?』
『う〜ん、、、分からん。 一回会って話したくらいじゃねぇ〜!! それに、見合いして、数回会ったくらいで、結婚するなんて、嫌よ! 』
ゆき子はやはり、自分が『結婚』をすることに違和感を感じ、どうしても、気が進まなかった。
やかて、ゆき子に役所でのアルバイトの話がきた。
正職員ではなく、アルバイトのほうが気が楽だと思ったし、
残業がない部署に空きが出た。と聞いた為、すぐに飛びついた。
老舗旅館の仕事とは違い、デスクワークだから、身体は楽だった。が、ガラス張りで見張られていて、また、別の窮屈さを感じた。
アルバイトは、二年契約だった。
私はこの先、どうしようか?
ここで繋ぎつなぎで働いている間に、何とか先を考えなければならない。
ゆき子は、一度、受験に失敗し、それほど行きたくもない地元の大学を卒業こそしたが、生涯をかけてコレがやりたい!なんて思うことには、まだ出会えなかった。学校生活の中でも、見つけることが出来なかったのだ。
アルバイトで与えられる仕事を、只々、たんたんとこなして日々を送っていたある日、席変えが行われた。
ゆき子の横には、最近、東京から赴任してきたばかりの男が座っていた。
酒井克春 28歳 ゆき子と同い年だった。
男は、ゆき子と目があったとたん、ニヤリと笑い
『あのさー、お茶入れて欲しいんだけどぉ〜』
と、気さくに話しかけてきた。
アイドルっぽい、可愛い顔立ちをしていて、小柄なせいか、実年齢より随分若く見えた。
ゆき子が給湯室から、お茶を入れて戻ってくると、
『サンキュ~』と言ったっきり、お茶には口をつけず、
『あーっ! コレ、コピーしといてぇー』
と、アレコレ雑用を頼まれた。
『オレ、昨日のゴルフで肩、痛くなっちゃってさー
ココ、ちょっと押さえてくんない?』
ニコニコしながら、気軽に話す酒井克春を、ゆき子は、憎めない人だなーと思いながらも、人前なので、肩もみするわけにもいかず、
2、3回、トントンと酒井の肩をたたいたあと、『ハイ!終わりよ!』と答えると、
『え〜? もう、終わりぃ?? 冷たいなあ〜』
と、冗談ぼく返してきた。
酒井克春と席を並べて仕事をしていることが、何だか楽しいな〜と、感じていたある日、
『コレ、コピーしてきて? 僕の未来の奥様??』
そう言って書類を渡された。
お、く、さ、ま、、、?
この時、生まれて初めてゆき子は、
『結婚』を意識した。
酒井克春にドライブデートに誘われたのは、アルバイトをし始めて、まだ2ヶ月しかたっていなかった。
『俺、車買ったんだぁ〜、、、なぁ~ 今度の日曜、俺とドライブしようぜ〜っ!』
あまりにも自然に、なおかつ、当然過ぎるくらい当然のように、言ってくる酒井に
いとも簡単に、『うん、イイよ』と承諾したのだった。
ゆき子は、この人と、一緒になるのかなー?と漠然とした思いがあった。
軽い! といっちゃあ、 軽い!
ノリで、行動していたが、、ゆき子には、この軽さが心地良かった。
かしこまって、緊張して、、、
なんていうところがなく、気さくに話が出来る、この『軽さ』と、『ノリ』が酒井の魅力だったのだ。
こうして、2人は急接近したと思ったら、瞬く間に恋に落ちた。
それから、、、
あっという間に、スピード結婚したのだった。
ゆき子の第二の人生が始まった!
だが、自分が結婚するなんて、思ってもみなかったし、ビンときていない。
最初は、社宅住まいから始まった。
窮屈な上下関係のある、近所付き合いに不安を感じていたが、自分たちで何とかやっていこう!
そんな新たな決意を胸に結婚生活が始まった。
一緒に暮らし始めると、酒井克春の態度は、徐々に変わっていった。
というより、今まで、ゆき子が気づかなかった部分がハッキリ見えてきたのだ。
克春は、かなりのドケチだった。
スピード婚だっただけに、気がつかなかった部分が多いのだが
当時、専業主婦をしていたゆき子に、電気代がかかるからテレビなど、お前は見るな!
コタツをつけると電気代がかかるから、仕事に行かないんなら、毛布にくるまっとけ!
と、驚くような事を言ってきた。
夫の喜ぶ顔が見たくて、夕飯の品数を何品か作ると、
『オレは、みそ汁さえあればイイ! 無駄な金を使うんじゃない! お前もダイエットにもなるし、メシの量を減らせ!』と、事細かく叱られた。
最初は、冗談かと思った。
キツイ冗談でも、言ってジャレ合える仲なら、どんなに楽しいだろう?
しかし、
克春の態度は、日に日にエスカレートしていった。
あまりの細かさと、ドケチぶりに嫌気がさし、ゆき子は、パートに出るようにした。
ある日の朝、いつものように早く起きて、2人分の朝食と、お弁当を作っていると、
『オレ、朝はメシは入らない。金かからんで、いい亭主だろ? お前も朝メシくらい、抜けば?』
そんな事を突然言い出した。
『じゃあ、お弁当もいらないよね!』
と、売り言葉に買い言葉で、ゆき子が皮肉を言い返すと、
『バカたれ! 弁当だけは、見栄えよーく作ってくれよー、職場の連中に見られるからな!』
と、お弁当には、やけにこだわりを見せた。
ドケチなのに、変な所が見栄っ張りだった。
2人の新婚生活は、ちっとも楽しくないばかりか苦しくなっていった。
生活費は、全て夫が握り、わずかな食費のみ、手渡される。
これじゃ、一カ月、とても、足りない、、、
出会った当初の、あの、可愛げのある克春は、いったい何処へいってしまったんだろう?
休日になると、克春は、ゆき子をおいて、ゴルフやバイクのツーリングに他の仲間達と出かけるようになった。
たまには、映画でも行こうとゆき子から誘っても、趣味が違うのを見てもつまらん!と、乗ってこない。
いつしか、二人は、全て別行動をするようになり、そのほうが、お互い楽だと思うようになっていった。
ゆき子は、パートに出るようになって、かなり痩せてしまった。
化粧品売り場の店員として、昼間、立ち仕事をしたが、立ちっぱなしは足が棒になり、自宅に帰ると、ヘナへナっとソファーに倒れこみ、暫く夕食作りも出来ない位に疲れてしまっていた。
化粧品売り場の中は、かなり辛辣だった。
独身ばかりの若い美容部員の集まりだったが、ゆき子より歳上の女性も多かった。
先輩は、新入りのゆき子に対し、何かとつっこんでくる。
『酒井ゆき子さんって、結婚してるのよねー
なのに、何で、働くの? 旦那の給料安いんじゃないのー?』
と、リアルに聞いてきた。
あまりにも唐突すぎて、黙ってスルーしようとするゆき子の態度が気にいらなかったのか?
『ね〜コレくらいはあるぅ?』と、指を3本立て
『コレより、上? 下?』と、しつこく狭ってきた。
『サア? どーでしょう?』と、ゆき子がとぼけて無視しようとした瞬間、
『高給取りなら奥さん、働いたりせんやーん!』と、周りに聞こえよがしに大きな声をだした。
ここも働きにくい職場だった。
不愉快な思いをしながら、トボトボと職場から帰り、疲れ切った身体で、やっと自宅に帰りついても、
こちらもまた、冷え切った、つまらない家庭の中だ。
その日、ゆき子は、自宅に帰ると、夫が晩酌していた焼酎に手を出した。
少しくらいなら、いいだろう。飲まないと、ムシャクシャしてどーにも気持ちが収まらなかった。
冷蔵庫にある、あり合わせのお惣菜をツマミに焼酎を割ることもしないで、ロックでそのまま飲んだ。
『酒井さん?? 酒井さん??』
痛っ!
誰かが、私のほっぺたをピシピシたたいてる!
確かに痛みは感じる。
でも、目があかない、、、
意識がもうろうとしている。
誰かの声は聞こえる、、、
私はどーなってるんだ?
そのうち、ゆき子は、誰かにおんぶされたあと、タンカーで運ばれた。
『ゆき子! ゆき子!』
この声は、夫だ。私はいったい、どーなったの?
そうこうするうち、猛烈な吐き気に襲われ、ゆき子は嗚咽を繰り返した。お腹の物が全て吐き出された時、我にかえって当たりを見た。
白い壁、 白いカーテン、 白いベッド
そして、憤怒で恐ろしい顔をした夫が、もうろうと見えた。
目をあけたゆき子に対し、夫の克春の第一声が、
『この、酔っ払いがぁ! 後で、入院費返せよ!』
と、吐き捨てるように言った。
明らかに怒っている。
悲しかった。
淋しかった。
まずは、こうなった経緯くらい聞いて欲しかった。
だが、、、、
どーせ、無駄なことだ。
ゆき子は、夫の克春には、もはや何も期待しなくなった。
『急性アルコール中毒』
午前様で帰宅した夫が、自宅で倒れているゆき子を見つけ、夜中に救急車を呼び、病院に搬送されたのだった。
最初は、心配した夫も、診察の結果、妻が自分のお酒に手を出し、急性アルコール中毒で倒れたのを知ると、無性に腹が立ったらしい。
ゆき子は、のちに夫から、入院費をしっかり請求された。
ゆき子は夫の給与明細を見せて貰ったことがなかった。もちろん振り込み口座も教えて貰えない。
2人で働いて、貯金をしたら、未来は、こんなふうにしようね!なんて、未来の話をしたことも、ない。
克春は、貯金をすることこそが生きがいのような男だった。
当時のゆき子には、そう見えたのだ。
まだ20代の若い二人。
漠然と日常を生きていて、コレといった人生設計を話し合う事すら出来ていなかった。
そんな生活に違和感を覚え、ある日の夕方、克春がバイクのツーリングがら帰宅し、機嫌良くしているのを見計らって、ゆき子は、恐る恐る聞いてみた。
『ねー、隣の奥さんから、聞いたんだけど、、、、、
夏のボーナス出たんだって?』
すると、克春の顔色は、キッとキツい顔に変わり 『それが、どーしたっ!』と、ゆき子を睨みつけた。
『あなたがいくら、給料貰ってるか、私、全く知らないんだけど、、、奥さんなのに。』
ゆき子の父親は、給与袋を全て母親に渡し、母親が家計を握っていたから、それが当たり前だと思っていたのだ。
『そんなこと、お前が知る必要ないだろ! 』
『何で? 私達、夫婦よね?』
『毎月メシ代やってるだろ? この社宅に住めるのも、俺様あってのことだ!』
『私、こんな窮屈な社宅になんか住みたくない! それに二人分でこの金額じゃ、毎月、苦しい!』
と、日頃溜まっていた気持ちを吐き出した。
すると、
『お前のやり方が悪いからだろうが!』
そういったかと思うと、側にあったテレビのリモコンをゆき子の顔めがけて。投げつけた。
リモコンは、見事に顔の頬骨に的中!
ジーンとした鈍痛が頬に走った。
この時ゆき子は、この人と、この先一緒にいるのは無理かも知れない、、、と強く感じた。
人や物に当たるにせよ、女の顔を外してくれる気遣いが出来る人なら、まだ、耐える余地があったかも知れない。
だが、そうはいかなかった。
顔の痛みを押さえながら、泣く涙すら出なかった。
ゆき子は家を飛び出そうとした。
もう、、、 無理だ!
取り敢えず、財布だけを持ち、サンダル履きで克春から逃げようとした瞬間、玄関口で背後から、克春に身体を押さえられ、財布を取り上げられた。
『どこ、行くつもりか?』と、怒鳴る克春に
『私、あなたとはもう暮らせない! 』と答えた。
克春は、ゆき子には何も言わず、取り上げた財布を自分の部屋にもっていった。
私より、お金が大事なんだね、、、? この人。
重苦しい空気感に耐えきれず、ゆき子は、克春が部屋に入った瞬間、外に飛び出した。
着の身着のまま、、、、何も、持ち合わせもなく、
暫く、当てもなく、外をさ迷い歩いた。
リモコンを投げられた頬には、まだ、痛みが残っていた。
みじめだった。
さて、この先、どーしたら良いものか?
考えた所で、夜風は、冷たくなるし、お腹はすいてくるし、、、
このまま私が家に帰らなかったら、夫はどーするだろう?
空きっ腹をかかえて、ゆき子は、そのまま歩き続けた。 頭を冷やして、よく考えたかったのだ。
どのくらい歩いただろう?
転勤してきたばかりで、新しい土地だから、地理もまだ、よく知らない場所だった。
もう、真夜中になっていた。
そのうち、公園が見えてきた。
やっと、座れる! 公園なら座れるベンチ位あるだろう、、、
そう思ったが、行ってみると、浮浪者らしき男がベンチを陣取り長ーくなって寝ていた。そこには2箇所長いベンチがあったが、2箇所とも、浮浪者が寝ている。
なんとなく不気味さを感じ、近づきたくはない。
歩き疲れ足が痛い。 お腹が空いた。 お金は無い。
あぁ〜 疲れたぁ〜、、、、、
ゆき子は、不気味な浮浪者を横目で見ながら、それでも、どこかに座りたくて
ふ〜っと、深ーいため息をつきながら、ブランコに座った。
ブランコなんて、何年ぶりだろう?
ぐたーっと、座りこむと、黒く光るものが地面に見えた。
何? 拾いあげたら、それは、小銭入れだった。 小銭入れについてるボタンがキラッと光って見えたのだ。
中には、小銭が670円ほど入っていた。
天の助け!
コレで飢えがしのげる!
ゆき子は、嬉しかった。さっき歩いていた時に見えたコンビニへ引き返そう。
夜中だが、コンビニがあったから、そこで、メロンパンと、コーヒーを買った。
小さいコンビニだったから、フードコートもなく、コンビニの外で立ち食いをしたが、空きっ腹のせいもあり、パンとコーヒーは極上の味だった。
この先、どうすればよいか、名案が浮かばない。
夜風に当たり、頭を冷やしながら考えるつもりが、
空腹や疲れに襲われると、もう、身体が止まりそうだった。
パンとコーヒーで運良くエネルギー補給出来たが、今度は睡魔と怠さで歩けない、、、
その内、だんだん気力もなくなっていった。
そうしているうちに、しらじらと夜が明け当たりが青白い空気になってきた。
ゆき子は立っているのが苦しくなりコンビニ前のブロック塀にもたれ、暫くヘナヘナと座りこんでいた。
するとサーッとタクシーが目の前を通り過ぎた。
そうだっ! なんで、タクシーを考えつかなかったんだろう?
このまま、今きた道を、また、歩いて帰ることを考えただけで気が遠くなりそうだった。
どこをどう彷徨ったかも覚えてない。
それより、体力消耗して、もう歩くエネルギーが無かった。
ゆき子は、コンビニの店員さんに頼み、タクシーを呼んでもらって、無事、社宅に帰りついた。
タクシーを社宅の側で待たせ、部屋に入ると、まずは克春にタクシー代金を貰わねばならない。
また、克春は、怒るんだろーな、、、、、
暗ーい気持ちで玄関のインターホンを鳴らした。
ドアノブを回すとカギもかかっておらず、ドアは、すぐに開いた。
克春は、怖い顔をして、直ぐにとんできた。
『心配したぞ! どこ、ほっつき歩いてた?』
『説明の前に、タクシー代ちょうだい。待たせてるから、、、、』
ここでも、一悶着起きるかも?と、覚悟していたゆき子だったが、以外とタクシー代金は、すぐもらえてホッとした。
克春はその日、仕事を休んだ。
妻が家出して帰らないとなると、おちおち、眠れなかったとみえる。
ゆき子も、仕事場に連絡し、仮病を使い休むことにした。
お互い、夜中、一睡も出来ず疲れきっていた。
でも、これからの生活をどう、たてなおすかが問題だ。
ゆき子は、顔にリモコンをぶつけられたこともさることながら、今の生活を続けていく事は、難しいと夫に伝えたが、なかなか、良い改善策が見つからず、その日は、2人とも物別れに終わった。
その日も、
『お前がオレの言う事きかんから、こんな事になるんだよ!』
と、いつものように吐き捨てるように怒られた。
その後、不貞腐れながら克春は、自分の部屋に閉じこもったまま、出て来なかった。
毎日のように、お金で揉める。日々の生活の件、食べ物、全てにおいて、ゆき子には、自由に出来なかった。
突然、雨が降り始め、洗濯物を部屋に入れ、部屋干しすると
『部屋が狭くなる! 何で晴れの日を見計らって洗濯せんか?』
と、烈火の如く怒り始める克春に、段々、異常性を感じるようになってきた。
こんなに息苦しい家庭生活なのに子供でも生まれたら、大変なことになる。ゆき子は、子供を持つ事など考えられなくなってきた。
やはり、克春から、離れて、又一人に戻るしかないな、、、
克春は、奴隷に命令するように、毎日、怒鳴り、ゆき子に当たり散らしていた。
イライラしていて、いつも、ご機嫌斜めだった。
克春が食卓に座って、すぐに熱々のみそ汁とご飯が出ないと
『はよ、せんかーっ!』と、怒鳴る。
テレビを見ていても、上の空のようだ。
仕事から家に戻ると、テレビのリモコンをガチャガチャと、チャンネルを変え、面白い番組がないと、すぐに、お酒を飲みはじめた。
ゆき子が、側で一緒にテレビを見ようと部屋にはいると、足音がうるさい! と、また、怒鳴る。
一体全体、克春は、どうしてしまっんだろう?
コレが彼の隠され本性なのか?
それとも、よっぽど職場で嫌な事があって、妻に当たり散らしているのか?
それとも、、、 それとも、、、
もう、ゆき子に愛情が無くなってしまったのか?
結婚生活と、ゆき子諸共、全てが煩わしくなったのか?
何度、夫にきいてみても、かえってくる返事は、 いつも同じ
『べつに、、、、、』
ただ、これだけだった。
家庭生活も、氷河期に突入
パートの仕事にも全く楽しさを見いだせない。
この四面楚歌状態を、どう立て直して行こうか?
何か、糸口は、見つからないだろうか?
ゆき子はそればかりを考えながら、過ごしていた。
パート先では化粧品を推奨する仕事なので、暗い顔をお客様に見せるわけにはいかない。
仕事先では、満面の笑みで対応するよう、全身の力を振り絞っていた。
毎日が緊張で、身体が、ガチガチだった。
そんな中で、薬の取引先の藤岡浩二という男が毎日のように店に出入りするようになった。
ゆき子のパート先は、薬と、化粧品を扱っている。小規模だが、街中にあり、繁盛していた。
『酒井ゆき子さんって名前なんですねー
僕、こういう者です』
と、藤岡浩二は、にこやかな笑顔でゆき子に名刺を渡した。
胸元につけている、酒井ゆき子と書いてある名札を見ながら、
『酒井さんは、この仕事は、長いんですか?』
と声をかけてきた。
すると、他の女性美容部員が一斉にキッとこちらを睨むように見た。
ちょっとした、女性たちの嫉妬心を空気の中に感じた。
それは、藤岡も同じで、この、わずかな空気感を不快に感じたのか?
『また、来るねぇ〜』と、ゆき子に、少し小声で囁いて、小さく手を振りながら店を出て行った。
店を出ていく藤岡浩二の後ろ姿を、目で追いながら、藤岡が消えていく姿をボケ~っと見ているゆき子に対して、
すぐ、佐渡恵子という美容部員がすり寄ってきて言った。
そして、
『あんた、あの人に気があるんでしょ?』と冷やかした。
『あの人には、キレーな彼女がいるんだから ね、、、酒井さんじゃ、かなわないと思う!』 と、皮肉たっぷりに言ってきた。
すると、また、別の女性部員の岩崎あゆみも加わった。
『そーよ! あの人にはラブラブの彼女がいるのよ。あなたじゃあ、無理! 入り込むスキもないよねー』と、ダイレクトに言ってきた。
ゆき子はこの先輩たちの言動に呆れた。
まだ、なーんにも、藤岡浩二のことなんて、質問もしてないのに、ここまで言ってこなくても、、、、
さらに、次はトドメの一言!
『それよりさー、酒井さんって、化粧品の売り上げ悪いよねー 。
パート勤務でも1日最低でも、3万円は売るのが常識よ!
でなきゃ、金泥棒よ。ずーっとここに、つっ立っててさー
旦那さん居るんだったら、ここ、来なくてイイんじゃない?』
と、今度は、ザグリと皮肉を込めて言ってきた。
ゆき子は、何も言い返せなかった。
まだ、口紅くらいしか売っていないのは事実だ。
やっとお客様がゆき子の推奨した新作の口紅を買ってくれた時も、
『口紅くらい、あなたが居ようが、居るまいが、客は、買っていくもんよ』と、何かにつけ、ひと言、ふた言、チクリと言ってくる。
まるで、新人捕まえて、憂さ晴らしでもしているように感じた。
先輩らしく、教えてくれる人など、誰一人として、ここには居ない。
見て覚えろ!と、言わんばかりの先輩達の態度に、ゆき子自身、どう対応してよいか?
戸惑う毎日が続いていた。
客商売は、どーも、肌に合わないな、、、おまけにノルマもあり、ここは、自分が続けられる場所じゃない!
別の仕事を、探そう。
ゆき子は、女性部員からの軋轢が何よりもストレスだった。
決意したゆき子は、夫に黙って化粧品会社をあっさり辞めた。
ここで、頑張ろうという気にすら、なれなかったのだ。
店長に辞表を出し、挨拶を済ませ、店を出た帰り道、例の製薬会社から来た藤岡浩二が待ち伏せしていたかのように現れた。
藤岡浩二は、ゆき子を見たとたん、吸っていたタバコの火を足で揉み消し、近寄ってきた。
『酒井さん、ココ辞めるの?』
『はい、お世話になりました』というと、
『ちょっと、時間ある?』と、聞いてきた。
『少しだけなら、、、』
ゆき子はそういって、2人は近場のミスタードーナツに入りこんだ。
精神的にクタクタだったゆき子に甘ーいドーナツは癒しの王様。
パートは16時で終わり、一番小腹がすく時間帯だった。ドーナツにかぶりつくゆき子を頼もしそーにみながら、藤岡浩二は本題に入った。
『酒井さん、うちの会社に来てくれない?
事務員が足りないからねー』
『有り難い言葉ですが、私、色々と考えたいことがあって、、、すぐには決めかねます。』
『何があったの? どーしたの? 僕で良かったら、何でも相談して?』
そういって、また、以前貰ったのと同じ、会社の名刺を渡された。
その裏に、藤岡浩二の個人の電話番号をボールペンで書き、
『コレが僕の個人電話だから、いつでも電話して』といって、ゆき子の前に差し出してきた。
嬉しいけど、彼女さん、居るとか聞いたしなー
と、戸惑いはあった。
それに、精神的に疲弊していた為、
事務員の話にすぐ飛びつく気持ちにもなれなかった。
先行きのことは、この時点では、まだ何も考えられなかったのだ。
藤岡浩二は、
『僕が、何か力になれる事があるかも知れないから電話番号を教えて? 』とゆき子に聞いて来た。
ゆき子は、名刺を作ってなかったので、口頭で電話番号を藤岡に伝えた。
パートを辞めた事で、離婚をする良い機会だとさえ思うようになり、気持ちが離婚に向けてだんだん強くなっていった。
それから、
ゆき子は、職業安定所に通い、仕事を捜しはじめた。
接客業やノルマがある所はもう、懲り懲りだった。
したくない! と思うものばかりで、
コレがしてみたい! なんて感じる仕事など何ひとつ見つけられないでいた。
やはり、藤岡が言ってくれていた、事務員としてお願いしてみようか?
そう思いはじめた矢先、藤岡浩二から、真っ昼間に電話がかかってきた。ちょうどゆき子も家に居て、タイミングが良かった。藤岡も、昼休みの時間帯だった。
『実は昨日、新しい事務員の子が決まったんだよ、
ごめんな、、、
ところで酒井さん、今、どうしてるの?』
『仕事を捜している最中ですよ』
『酒井さんって、彼氏さん居るの?』
『私、結婚しています。』
『えーっ! ショック〜ッ!』
暫くの沈黙のあと、『どうしてですか?』と聞いたゆき子に
『あ〜、僕の矢は、あなたに刺さらなかったあ〜』
と、冗談ぽく言ってきた。
『藤岡さんこそ、おきれいな彼女さんとラブラブだって、もっぱらの評判ですよ!』
と、切り替えすと、
『彼女? もう、とっくに別れたよ』
『酒井さんの旦那さんが、羨ましいな〜
結婚生活、楽しいかい? 憧れるなー』
などと、花を持たせてくれるような事を言ってくれた。
毎日DVを受けているような生活をしているゆき子にとって、久しぶりに、こんな事を言われると、嬉しかった。
嘘でも楽しいです。なんて、言えるはずがない。
DV生活が現実なのだから、、、
『私、色々あって、今、離婚を考えているんです』
仕事や住む場所を早く見つけて、家を出ようと思ってるの』
『はあ〜っ?』
それを聞いた藤岡は、半信半疑だったに違いない。
それでも、ゆき子は、せきを切ったように自分のことを、この藤岡という男に話をしてしまっていた。
今の気持ちや、コレまでの経緯、男性の心理状態などなど、
色々と、話を聞いて貰えて気持ちが、スッキリしていた。
『ありがとう、藤岡さん、話をきいて貰うって、こんなに気が楽になるもんなんですね〜っ!』そう言って電話を切ろうとしたゆき子に
『酒井さん、ちょっと待って! 今度、僕と会ってくれないっ?』
こうして、藤岡浩二とゆき子は、会う約束をした。
気がつけば、3時間以上も、電話で会話をしていた。
営業職の藤岡は、時間の自由はきくらしいのだ。
まだ、離婚の話も、夫にはしていない。だが、心の中では、すでに決まっていた。
この先、耐えながら苦しい生活を送る事は、自分はおろか、夫だって、面白くないはずだ。
離婚話も、なかなか聞き入れてくれない夫に対し、これから、実力行使に出るしかない。
ゆき子は、決断した。
夫に内緒で家を出よう!
今度こそ、誰にも頼らずに自立しなければ、、、
強い決意のもと、親にも内緒に、着々と準備を固めていった。
まずは、先立つ物、お金を用意しなければ、、、
だが、夫が全てを管理しているから、ゆき子は自分が独身時代に貯金していた、わずかなポケットマネーしかない。
部屋を借りる資金や、新しい仕事が決まるまでの生活費を捻出しなければ。
早速、分厚い電話帳を見て、あらゆる所に電話をかけまくったり、
しょっちゅう、郵便ポストにはいっているチラシの
お金貸します!的な所にも、一応、連絡してみた。
結果、返済利率まで詳しく説明してくれたのは、郵便局だけだった。
ゆき子みたいに、専業主婦で、現役で仕事をしていない人でも、借りる事が出来ると分かり、
郵便局から最大20万円分借り、それと、自分のポケットマネーを合わせ不動産屋に行き部屋を探した。
回りの環境や部屋が気に入るかどうか?なんて考えているゆとりは、当時のゆき子には、全くなかった。
とにかく、夫の、暴力的なことから逃れるのが、第一優先だったので、どんな小さい部屋でも、不便さがあっても、自分の予算内でやっていくことを念頭においていた。
敷金礼金その他の初期費用含め
『この予算内で住める場所をお願い致します』
と、不動産屋に伝え、ゆき子は、すぐに行動開始した。
仕事を決めるよりも先に、多少不便でも安心して暮らせる場所が欲しかったのだ。
まずは、暴力暴言が飛んでこない、安心して身を置ける場所に自分を確保し、それから、ゆっくり仕事を探したかったのだ。
さすがはプロ
不動産屋に頼むと、ワンルームがすぐに決まった。
あとは、引っ越しがネックだった。
先ずは、夫にバレないように、、、
そして、社宅のオシャベリな奥様がたの、なるべく目に触れない時間帯
平日の、朝10時30分を選んだ
子供さん達も学校へ行き、主婦たちも買い物に出たりして散らばる時間、
ゆき子はこの日、すみやかに決行した。
幸い、社宅は、収納スペースだけは多い間取りに作られてあった。
天井に近い上のスペースまでは、夫は開けて見る事はなかったから、そこに
着々と最少限度に荷物をまとめ用意していたから、
夫にバレることなく上手くいった。
引っ越し業者のかたには、訳あって、夫にバレたくない事情があるからと言って、行き先を万が一、周りから聞かれるような場合は、内密にお願い致します。と、金一封を包んで渡した。
克春には、離婚届けと、置き手紙を残した。
落ちついたら、必ず連絡するから、それまでそっとしておいてほしい。という内容をしたためた。
新居に引っ越し、荷物を入れる時、ゆき子は、ときめいていた。
母親からは、過去、何かにつけ、役立たず!と、レッテルを貼られてきているし、
夫の克春からは、
お前ごときに何ができるか!と、罵倒される毎日だったから、
実家にも帰りたくなかったし、ましてや、夫のもとになど、、、帰るもんか!
やっと、脱出成功。
仕事が大変なのは、百も千も承知の上
それでも、、、
これからは、親も夫も頼らず、自分の手て、切り開いてみせるわ!
ゆき子は固く決意した。
荷持をほどき、狭い部屋ながらもレイアウトを自分で決められる事は、この上なく幸せだった。
夫の克春と暮らしていると、カレンダー1つ、ゆき子の自由に置けなかった。
大好きなぬいぐるみや小物も、邪魔だ!と言って勝手に処分され、花すら飾られない。
いつしか旦那様を怒らせないように、びくびくしながら過ごしている事が当たり前だとも思いながら暮らすようになっていた自分から、ようやく、
その違和感に気づき、自分を生きる第一歩を踏み出したわけだ。
心が躍るように、ワクワクしている。
早速、固定電話をとりつけ、好きな位置に物を配置し、その1つ1つの動作すら、誇らしく感じた。
よく、やった!
さあ、これからは、仕事さがしだ。
部屋の整理が落ちつくと、ゆき子は、不意に藤岡浩二の事を思い出した。
顔が広い藤岡さんにも、どこか頼んでみよう、、、
そう思い、藤岡に電話をかけ、
まずは、夫から脱出したことと、本格的に仕事を探していることを伝えた。
藤岡は、ゆき子の新居に直ぐにとんできてくれた。
部屋を見た瞬間、引っ越しのあと、いらなくなった段ボールが山積みになっているのを見て、
段ボールをカッターナイフで細かくしたり、足で、ペチャンコにしたりして、ゴミをまとめる作業を手伝ってくれた。
『酒井さん、足りない物があったら、言って?
困ったことがあったら、僕に何でも言って?』
そう言って、自分の胸にゆき子を抱きよせた。
ゆき子は、心底、藤岡に感謝した。
幸福感でいっぱいだった。
その日から、藤岡浩二は、度々、ゆき子の新居に訪れるようになった。
夜、ゴミ捨てまで一緒に持って行ってくれる、藤岡に心から感謝していたのだった。
だが、この快進撃にうつつをぬかしている場合じゃなかった。
幸せを感じながら、藤岡と一緒にゴミを捨てに行った、この夜の出来事が、あとあと、命とりになるとは、、、
2人仲良く、ゴミをもち、部屋から出る瞬間を興信所に激写されてしまったのである。
この日を境に、またもや、さらなる闇落ちが始まった!
→→→→→→→ 下編に続く →→→→→→→→
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