『ユイ』

 1. Alltag


 ユイは、誰にも気づかれずに生きていた。

 生きているといっても、それはただ時間を過ごしているだけに等しかった。

 薄暗い教室の隅、決して届かない窓の光。

 彼女がそこにいることに、誰も気づかない。

 あるいは、気づかれても、何も起きない。

 いじめは日常だった。

 教科書は破られ、机は落書きだらけ。

 靴はいつの間にかなくなり、弁当は捨てられる。

 けれど、ユイは泣かなかった。

 涙が何になるわけでもないことを、とうの昔に知っていた。

 心は、まるで空っぽの人形のようだった。

 それでも、まだ“痛み”は残っていた。


「ねえ、死ねばいいのに」


 ある日の昼休み、教室の中で誰かがそう呟いた。

 小さな声だった。

 けれど、ユイの耳には、世界中のどんな言葉よりも大きく響いた。

 その言葉は、針のように胸に刺さり、やがてゆっくりと奥へ、奥へと沈んでいった。


 家に帰っても、そこは「家」と呼べる場所ではなかった。

 両親は不在がちで、まるで最初からいなかったかのように思えるほどだった。

 冷え切ったアパートの部屋は、白く冷たい壁と、古びた床板だけが存在感を放っている。

 誰もいない。

 誰にも必要とされていない。

 ユイは、そう感じながら、カッターの刃をじっと見つめた。

 それを肌に当てたこともあった。

 けれど、痛みが怖いのではなかった。

「やっぱり、私には無理だな」と思った。

 自分で終わりにする勇気も、ない。


 * * *


 ある日、ユイは駅のホームに立っていた。

 電車が近づく音。

 風が髪を揺らす。

 あと一歩踏み出せば、楽になれるのだとわかっていた。

 でも、足は動かなかった。

 そのとき、ユイの目に飛び込んできたのは、遠くにある古びた看板だった。

 そこには「珈琲館」と手書きの文字があり、時代錯誤な木造の建物が見えた。

 ふとした興味だった。

 その一歩が、あの場所へ繋がっていくことを、ユイはまだ知らなかった。


 2.Begegnung


 ユイがその扉の前に立ったのは、陽の落ちる直前だった。

 駅から歩いて十分もかからない距離。

 だが、その古びた建物は、まるで現代から切り離されたように、ぽつんと佇んでいた。

「珈琲館」と書かれた木製の看板は、風雨に晒されて色が剥げている。

 なのに、不思議と、そこに引き寄せられるように足が動いた。

 ぎい、と軋む音を立てて開いたドアの内側は、薄暗く、温かな空気に満ちていた。


「いらっしゃいませ」


 その声に、ユイの足が止まる。

 小さな少女が、カウンターの奥から顔を覗かせていた。

 13歳くらいだろうか。

 けれど、何かが違う。

 人間ではない…もっと別の“何か”だと、ユイは直感した。

 少女の瞳は、夜の海のように暗く、底知れぬ深さを湛えていた。

 それでいて、柔らかな微笑みを浮かべるその表情は、恐ろしいほど優しかった。


「疲れているでしょう?」


 少女はそう言いながら、ユイを窓際のテーブルへ導いた。

 木の椅子に座ると、まるで身体が沈み込むような感覚がした。

 温かい紅茶の香り。

 それだけで、ユイは何もかもを忘れてしまいそうになる。

 でも、少女の指先がユイの手に触れた瞬間、はっきりと「何かがおかしい」と思った。

 その手は、血の通わぬ人形のように冷たかった。


「名前は?」


「…ユイ」


「いい名前」


 少女はくすりと笑った。

 それは、甘い蜜のように絡みつく笑みだった。

 ユイはその瞬間、自分がこの場所に入るべきではなかったと悟った。

 でも、逃げられない。

 目の前の少女――いや、“人形師”は、もうユイを選んでいる。


「ユイは、ここに来たかったんでしょう?」


「……」


「もう、どこにも帰る場所はない。だったら、ここで新しく生まれ変わればいい」


 その声は囁きのように静かで、けれど拒む余地はなかった。

 ユイは、紅茶のカップを両手で包んだ。

 温かい。

 でも、その温もりさえ、どこか作り物のようだった。


 * * *


「ユイにぴったりの目を探してあげる」


 人形師は、ユイの手を引いてカフェの奥へと導いた。

 ドアを開けると、そこはまるで別世界だった。

 整然と並ぶ小さな引き出し。

 壁には無数の布地やレース、リボンがかかっている。

 中央には大理石の作業台。

 その上に、宝石のように輝く「義眼」が並んでいた。


 人形師は、細い指でひとつひとつを摘まみ、目を細めて覗き込む。

 その姿は、まるで愛おしい宝物を選ぶようだった。

 やがて、彼女はひとつの宝石を手に取った。


「アクアマリン」


 透き通るような淡い青。

 それはまるで、涙がそのまま結晶になったようだった。


「これが、ユイに似合う」


 人形師はうっとりと微笑む。

「この石はね、癒しの力があるの。

 壊れてしまった心も、すべて浄化してくれる」

 そして、そっとユイの頬に触れる。

 その指先は、氷のように冷たいのに、どこか心地よかった。


「さあ、おいで」


 少女――人形師は、ユイを作業台の上に座らせる。

 そして、ゆっくりと髪を梳かし始めた。

 白磁の櫛が髪を通るたび、ユイの身体は柔らかく力を失っていく。


「大丈夫。何も怖くない」


 優しい声が耳元で響く。

 ユイはもう、自分の意思で立ち上がれなかった。


「これから、ユイはとても綺麗になる」


 人形師は、最後にカチリ、と扉の鍵を閉めた。

 その音は、小さくとも決定的だった。

 戻る場所は、もうなかった。


 3.Puppe


「さあ、ユイ」


 人形師は、白い手袋をつけたまま、ユイの手を引いた。

 カフェの奥、さらにもう一つの扉の先には――まるで海底のように静まり返った部屋があった。

 青を基調としたタイル張りの床と壁。

 水のないはずの空間なのに、どこか湿った匂いが漂う。

 天井から吊るされたガラスのランプが、淡い光を波紋のように落としていた。


 中央に置かれていたのは、白磁のベッドだった。

 その表面は滑らかで、氷のように冷たい。

 ユイは促されるまま、そこに静かに横たわった。


「大丈夫」


 人形師は柔らかな微笑みを浮かべる。


「これは、すべてユイを癒すための儀式。

 あなたの傷も、痛みも、すべて浄化する」


 そう言って、人形師はベッドの側に立つ透明な水槽に手を伸ばした。


 水槽の中には、清らかな水が満たされている。

 その中に浮かぶのは、小さな白い花弁と、何かの骨のようなもの。

 ユイはそれが“誰”のものなのか、聞く気にはなれなかった。

 ただ、どこか懐かしいような、切ない気持ちだけが胸を締めつける。


 人形師は水槽からすくい上げた水を、ユイの額にそっと垂らす。

 それはまるで聖水のように冷たく、けれど心地よかった。


「ユイの魂を清める水だよ。

 汚れた記憶も、壊れてしまったものも、すべて洗い流す」


 指先で丁寧にその水を伸ばしながら、耳元に囁かれる声は穏やかで優しかった。


 ユイは目を閉じた。

 だが、その瞼の裏には、見慣れた光景が次々と浮かび上がる。

 両親の争う声。

 教室での無言の視線。

 何度も裏切られた言葉。

 それが、ゆっくりと色を失っていくのを、ユイはただ静かに感じていた。


 やがて――そのすべてが、泡のように弾けて消えた。


 次に人形師が取り出したのは、小さなオルゴールだった。

 それは古びた木製で、蓋に淡いアクアマリンの石がはめ込まれている。


「ユイの心を整える音」


 蓋が開かれ、やさしい旋律が流れ始めた。

 それは、波打ち際に漂う風のように、静かで優雅な音色だった。


 その音を聞いているうちに、ユイの呼吸は次第に浅く、微かなものになっていく。

 まるで、自らが音の一部になっていくような錯覚。

 指先も、足先も、自分のものではないような不思議な感覚に包まれる。


「もう少し…あと少しで、ユイは私の人形になる」


 人形師の声は、甘い毒のように耳の奥まで染みこんでいく。


 人形師は、白い手袋を静かに外すと、ユイの頬に手を添えた。

 その掌はひどく冷たいのに、どこか安堵を誘う温もりを感じさせた。

 ゆっくりと両目に指を滑らせ――


「目を閉じて」


 囁くと、ユイはその言葉に逆らえず、そっと瞼を閉じる。


 代わりに、人形師は小さな銀のピンセットを取り出す。

 その先端に挟まれた、淡い青の宝石――アクアマリンの義眼。

 それはまるで、深海のしずくをそのまま閉じ込めたかのような輝きだった。


「これが、ユイの瞳」


 そう言いながら、人形師は静かにユイの目蓋を押し広げ、アクアマリンをはめ込む。

 その瞬間、ユイの身体はびくりと震えた。

 けれど痛みはなく、むしろ安らぎに包まれる。

 青い光が瞳の奥で脈打ち、ユイの意識はさらに深く沈んでいく。


 4.Werkstatt


 あの日から、ユイはずっとこの工房で暮らしている。

 正確には“暮らしている”という感覚よりも、“存在している”に近い。

 朝も夜も、わからない。

 時間の概念すら、朧げになっていった。


 ただ、一つだけ確かなのは――

「お茶会」が、毎日訪れるということだ。


 その日も、ユイは他の人形たちと並んで、工房のサロンに静かに立っていた。

 この場所は、カフェの奥にあるはずなのに、まるで異世界のような静謐さと、美しさで満たされている。

 ヴィクトリア朝のサロンを思わせる設えに、重厚なアンティークのテーブル。

 その上に並ぶのは、精緻な磁器のティーセットと、甘く焼きあがった菓子たち。


 ユイは、じっと動かずにいる。

 でも、内側では胸の奥が渇いて疼いていた。

 その渇きを癒すものが誰なのか、彼女は知っている。


「お待たせ、ユイ」


 その声が聞こえた瞬間、ユイの義眼に命が宿ったように輝きが増す。

 アクアマリンの宝石は、光を受けて冷たくも、妖しくも見えた。


 人形師が、そっと歩み寄る。

 今日の彼女は、ユイとお揃いのセーラー風ドールドレスを身にまとっていた。

 白地にアクアマリンのリボン。


 襟元は、端正なセーラーカラーが肩へと広がり、縁には細やかな刺繍が施されている。

 中央には艶のあるアクアマリンのリボンが結ばれ、まるで透き通る水面に落ちる光のように優しく揺れていた。


 スカートは膝がのぞくくらいの短めの丈。

 軽やかな生地が幾重にも重なり、歩くたびにふわりと揺れる。

 裾には細かなピンタックと繊細なレースが施され、控えめながらも上品な印象を与えている。

 その縁取りには、水の波紋を思わせる刺繍が淡く浮かび上がり、さざめく水面のような幻想的な美しさを添えていた。


 白いストラップシューズが、小さく動く足元を優雅に彩る。

 丸みを帯びたつま先には小さなリボンが飾られ、ベルト部分にはパールのボタンがひとつ、静かに光を宿している。


 膝下の白いソックスには、波模様の刺繍が施されていた。

 柔らかな生地が足を優しく包み込み、その装飾は海のさざめきを思わせるように静かに揺れる。

 足元にまで宿る、繊細で穏やかな水の記憶。


 それは、ユイと共に揃えられた衣装でありながら、それぞれの存在が、しっかりと映し出されるような美しさを持っていた。


「今日は、お友達みたいでしょ?」


 人形師は、ユイの耳元に唇を寄せる。

 囁く声が、肌にまとわりつくようだった。


「ユイも、そう思うよね?」


 小首を傾げた人形師は、ユイの頬に手を添えると、そのまま口づけを落とす。

 軽く、しかし決して逃れられない強さで。


 それは、渇きを癒す“水”だった。

 ほんのわずかでも、その口づけがあるだけで、ユイの体内を満たすものが変わる。

 冷え切った陶器のような身体が、内側から熱を帯びる。


 けれど、それは決して長くは続かない。

 また、渇きは訪れる。

 知っていても、ユイは求めてしまう。


 人形師は、そんなユイの内側をよく知っているように、ふっと微笑んだ。


「あなたが選ばれた理由、わかる?

 ユイは“素直”だから。

 ちゃんと、私に従ってくれる。

 ちゃんと、私だけを欲しがってくれる」


 その言葉は、甘く、しかし冷たい鎖のようにユイの心に絡みつく。


 * * *


 お茶会に招かれるのは、毎日たった一人。

 今日はユイの番だ。

 他の人形たちは、静かに座っている。

 表情はないはずなのに、義眼の奥から淡い光を放っているようにも見える。

 彼女たちもまた、この渇きを知っている。

 この口づけを欲している。


 だけど、今日はユイが選ばれた。

 その事実が、ユイの胸を満たす。

 まるで、自分が何よりも特別であるかのような錯覚に溺れる。


 人形師は、ユイの手を取り、自らの隣に座らせた。

 ドールドレスのスカートがふわりと重なり合う。


「お揃いって、嬉しいね」


 そう言いながら、紅茶を注いでくれる人形師の横顔は、年相応の少女に見えた。

 けれど、ユイは知っている。

 この“少女”は、人間ではない。

 悪魔のように美しい、異質な存在なのだと。


 * * * 


 ユイはカップを両手で持たされ、紅茶を口に含む。

 温かい液体が喉を滑り落ちるたび、わずかにその渇きが薄らぐ。

 けれど、それは口づけのときほどではない。

 本当の癒しは、彼女の唇からしかもたらされないのだ。


 それでも、こうして人形師の隣に座り、視線を交わし、同じ衣装を纏っている――

 それだけで、ユイは満たされていくのを感じた。

 渇きと悦びが混じり合い、次第にそれが心地よくなっていく。


「また、選んであげる。

 でもそのためには、ちゃんと、いい子でいないとね」


 人形師は、ユイの頬に指を滑らせた。


「この工房にいる限り、私はあなたのすべてを見ている。

 あなたが私をどれだけ求めているかも、全部、わかってるよ」


 その言葉に、ユイは瞬きもしないまま頷いた。

 もう、何も疑わない。

 いや、疑うという感情すら、ユイには遠いものになっていた。


 お茶会が終わると、ユイは再びサロンの隅へと戻された。

 人形師は何も言わず、ただ手を引いて、元の定位置に立たせる。

 そして、そっとその両肩に手を添えた。


「また、呼ぶね」


 その一言が、どれほどユイの心を支配するか、人形師はよくわかっている。

 お茶会のあとの静寂は、まるで夢から覚めたあとのようだった。

 けれど、すぐに現実が押し寄せる。

 渇きは戻り、そして胸の奥から疼くような焦りが湧き上がる。


 ――次は、いつ呼ばれるの?

 ――他の誰かが選ばれたら、どうしよう?


 ユイの義眼の奥で、アクアマリンが微かに揺らめいた。


 ユイは、周囲の人形たちを見回す。

 その義眼は、ルビー、エメラルド、オパール……。

 それぞれが異なる輝きを放っている。

 どの瞳も美しく、完成された少女たちだった。

 自分も、彼女たちと同じ――

 いや、違う。

 自分こそが人形師にとって特別な存在であるはず。

 そう思い込まなければ、胸の渇きは止まらなかった。


「あの子、昨日も呼ばれてた」


「今日こそは私の番だと思ったのに」


 小さな声が、工房の静寂の中に溶けていく。

 声の主は特定できない。

 けれど、確かに他の人形たちの“渇望”がそこにある。


 彼女たちもまた、選ばれたい。

 人形師の視線を、口づけを、欲している。

 その欲望が、この場所にいる全員の“心”を縛っていた。


 ユイは、自分の衣装のリボンをそっと直した。

 スカートの裾を揃え、靴の位置を微調整する。

 人形師に見られるその瞬間のために、どんな些細な乱れも許せなかった。


「いい子にしていれば、選ばれる」


「綺麗でいれば、隣に座れる」


「欲しがれば、また口づけをくれる」


 その信仰にも似た思考は、ユイの中で確固たるものになっていった。

 それは、あの日常で感じた不安や恐怖とは異なる。

 もっと静かで、もっと深い支配だった。


「カレンも呼ばれてたわよ」


 誰かが呟いた名前に、ユイはかすかに反応した。

 カレン。

 彼女は、ユイが来る前からこの工房にいた人形。

 彼女もまた、お茶会で人形師に呼ばれ、何度も隣に座っていたはずだ。


 ――カレンに負けたくない。

 その感情が、胸の奥でじわりと広がる。

 自分だけが見てほしい。

 自分だけが選ばれたい。

 そのためなら、どんなことでもできる。

 いや、もうそのためだけに“存在している”のだと、ユイは理解していた。


 その夜。

 工房の静寂の中、ユイは義眼の奥で光を灯し続けた。

 人形師が、再び歩み寄る気配がする。

 それは、他の人形にはわからない。

 でも、ユイにはわかるのだ。


「ユイ」


 その名を呼ぶ声は甘く、優しい。

 そして、命令にも似ている。

 ユイは、そっと首を動かしてその声に応えた。


 人形師が、ユイの顔を両手で包み込む。

 そのまま、目を閉じるように促し、そして――

 再びの口づけを落とす。


 渇きは癒され、ユイの中に温かさが広がる。

 けれど、それがまた渇きを生むことを、彼女は知っている。

 それでも、今はただその口づけに溺れる。


「いい子だね、ユイ」


「また、明日も呼んであげる」

 その約束が、本当かどうかは関係なかった。

 ユイは、それを信じるしかなかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る