第2話
「み、見てないです。なにも......」
女の問いかけに、アリアは反射的にそう答えた。
白シャツを前衛的な赤い斑点で彩った女は、温度を感じない瞳でアリアを見下ろしていた。
殺人現場の物陰に身を潜めていた者が言う「何も見ていない」など嘘に決まっている。しかし、ここで素直に「はい、見ました!」なんて言おうものなら、アリアの首と胴は永久にお別れしてしまうだろう。
アリアにできるのは、どうか目の前の殺人鬼が騙されてくれますようにと、大して信じてもいない神様に祈ることだけだった。
「本当に何も見てない人間はさ、まず何のことか聞くんだよ」
「......あ」
無論、そんな浅はかな企みが通じるような相手ではない。
女は変わらぬ冷たい声でアリアを問いただす。
「さっきの、見た?」
「さ、さっきのって何のことですか......?」
「......見たぁ?」
「! はい、見ました。がっつり見ちゃいましたっ!」
女が一歩詰め寄り、目の奥の闇が一層深くなる。
声がねっとりとした迫力を帯び、アリアの耳から脳にまで絡みついた。
その恐怖に耐えきれず、アリアはつい正直に答えてしまった。
ああ、終わった。そうアリアが思ったのと反対に、女の空気が少し和らいだ気がした。
女はアリアの自白の聞くと満足げにうなずいた。そして、先ほどまでと変わらない無表情で「正直に言ってくれてありがとう」と言うと、スタスタと歩いてアリアの横を通り過ぎていった。
状況を飲み込めないアリアは女を目で追った。
女は路地の向かいの壁、突き刺さったナイフの前に立つと、それを引き抜いて振り返った。
「じゃ、殺すね」
「え?」
あまりにもあっさりと言うので、アリアはその意味を理解するのに数秒を要した。
その間にも女は町中を歩くような足取りで近づいてくる。
一歩。また一歩。
女が近づくたびに、その手の中の刃物が怪しく光った。
「待って。助けてください!」
「ごめん、無理」
「......!」
「目撃者って、この仕事するうえで天敵だから」
アリアの懇願も虚しく、女はすでにアリアを射程に収めていた。
凶器を手に立ちはだかる女と地面にへたり込むアリア。もはや結末は決まっている。あの男を殺したとき、女の動きをアリアは目で追えなかったのだ。それがすべてを物語っている。
あと一歩踏み込めばいい。その距離に来たとき、女はその歩みを止めた。
自分の行く末を察したアリアは、ゆえに来るはずの一撃が来ないことに驚いた。
恐怖に負けてつむっていた目を開くと、身をかがめた女がアリアの顔を覗き込んでいた。
「殺る前に一つ聞きたいんだけどさ。その恰好、何?」
「これですか? ......普通の服ですけど」
「普通じゃないでしょ。どんだけ貧乏ならそんな古代ギリシャ人みたいな服になるの?」
「貧乏って、いや確かに貧乏ですけど......これでも仕事服なんです」
「そんな服で仕事するなんて古代ギリシャの哲学者か宗教画の中の天使さまぐらいなものだよ」
「まぁ、一応天使なので。頭に“元”がつきますけど」
女の動きがピタリと止まった。
感情の一切を読み取らせなかった瞳に、確かに困惑と疑念が渦巻いていた。
「冗談にしては面白い、と思うよ」
「冗談じゃないんですけど」
「......じゃあ、きみ、本当に天使なの?」
「はい。元ですけど」
殺される恐怖と未だ生きている安堵で軽くなった口を、アリアは見事に滑らせた。
ただ、今回はそれが功を奏したらしかった。あまりにもよどみなく言ってのけるアリアの様子に、女は戸惑いを露にしていた。
「それを信じろと?」
「ほ、本当に天使なんですよ」
「証拠、ある? 君がほんとに天使だっていう証拠」
「......」
アリアは俯くと、プルプルと体を震わせ始めた。
寒さに震える子供のように小刻みに体をゆする。そうして、しばらく使っていなかったそれを解き放った。
白い羽が、あたりに舞い散った。
季節外れの雪のように、二人を取り巻く一帯を純白の羽毛が埋め尽くす。
白羽に覆われた空間の中心にアリアがいた。上体を前に少しだけ丸めるようにして座り込んでいる。
―その背からは、純白の翼を生やしていた。
「これで、信じてもらえましたか?」
アリアの問いかけに返答はなかった。
女は黙ってアリアを、正確にはその背にある一対の翼を見つめていた。自ら輝いているように見えるほど美しい純白に、彼女は見入っていた。
「......さすがに、信じるしかないよね」
たっぷりと沈黙してから、女はそう答えた。
アリアの顔がパァっと明るくなる。喜びに満ちた表情で言葉を紡ごうとし、しかしそれを女の声が遮った。
「でも、殺ることに変わりはないかな」
「な、なんでですか⁉」
「だって、目撃者を生かしておくメリットないでしょ。君が人か天使か、それともほかの何かかなんて関係ないよ」
女はアリアの悲痛な叫びを無視して言葉をつなぐ。
それに対して、アリアは必死に食らいついた。
「だ、だったら、メリットがあれば見逃してくれますか?」
「あれば、ね。でもさ、目撃者を放置すること自体が私にとってはリスクなんだよ。見逃すリスクなんてあると思う?」
まさに正論。完璧な指摘だ。
それでもアリアは必死に言葉を探した。引き下がったら、そこで終わりだ。
焦る思考の中、アリアは反射的にそれを口にした。
「私があなたに協力するっていうのは、どうですか?」
「協力? ......詳しく聞こうか」
「あなたはさっき、私のことを仕事をするうえで天敵って言いました。ということは、さっきの殺しもお仕事なんですよね? だから、私があなたのお仕事に協力するので、代わりに命の保障をしてください」
アリアは震える声で言い切った。提案というよりは要求に近い格好になってしまったが、そんな些事を気にする余裕はなかった。
もとより、相手もそんなことは気にしていない。アリアが言い終わるとすぐに、女が口を開いた。
「君には、何ができるの?」
アリアがどのように役に立てるのか? それを教えろという意味である。
アリアは素早く立ち上がると、力を振り絞って機敏に男の死体に近寄った。
死体の隣に膝をつくと、躊躇なく手を死体の胸へと伸ばした。
アリアの腕は、まるで水面に向けてそうしたかのように、胸の中に潜り込んだ。そして、しばらく腕をもぞもぞと動かした後、女の方を振り返った。
「これでどうですか?」
アリアの震える声を聞いた女は、アリアのすぐ隣まで来て死体に目を向けた。
そして、彼女の眼は驚愕によって見開かれた。
「これ、どうやったの?」
「一応天使ですから、人の魂にあれこれするのは得意なんです。魂と身体ってお互いに同じ形になろうとするので、魂の形を整えれば自然死っぽく見せることはできるんです。もちろん、魂が天界に召される前にやらないといけませんし、そもそもはこの能力は許可なく使っちゃダメなんですけど」
「へぇ......」と押し殺した声でつぶやくと、女は座っているアリアと同じ目線まで腰を下ろした。
そしてガシッと両の手でアリアの方を掴むと、別人のような明るい表情で迫ってきた。
「いいよ、すごくいい! 採用!」
「‼ ということは......」
「うん。君が私に協力する限り、君は生かしてあげる」
全身の力が抜けるのを、アリアは感じた。
女が肩を揺さぶっているおかげでどうにか座った体勢を維持できている。苦境を乗り越えた安堵が、アリアの身体に染み渡った。
他方、宝物を見つけた子供のような眼差しで、されど無表情のままアリアを好き放題揺さぶった女は、突然すっと立ち上がるとおもむろに右手を差し出した。
「それじゃあ、これからよろしくね。天使さん」
「こ、こちらこそです」
引き上げられるようにして立ち上がると、ふらつくアリアは抵抗の暇なく女に背負われた。
背負われた背中の中で、アリアはふと疑問を口にした。
「まだ名前言ってませんでしたよね。私はアリアって言います。えーと、あなたのお名前は?」
「私は......真夜。黒鉄真夜」
「ふふ、よろしくお願いします。真夜さん」
まだ日は高く、柔らかな日差しが降り注ぐ。
人知れない路地裏で、殺し屋と天使の裏稼業が始まった。
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