第5話:記憶の奥に、まだ光は届かない

──あの人の名前を、どうしても思い出せない。


見えていたはずなのに。

確かに目の前にいたのに。

時計塔の下で、一瞬だけ。


それなのに、記憶の表面に、誰の名前も浮かばない。



「お姉ちゃん、大丈夫?」


綾音の声に、はっとする。

気づけば、空っぽのマグカップをぼんやり見つめていた。


「うん。……ちょっと、考えごと」


「最近、多いよね、そういうの。寝不足とか?」


「……かもね」


嘘じゃない。

でも本当のことも言えない。

でも本当は、心のどこかで答えが出てる気がした。

思い出す勇気が、まだないだけで。



あの懐中時計。

もうどこを探しても見つからなかった。


昨日、手の中にあったはずなのに。

今日はもう、跡形もない。


あれも、夢だったんだろうか。

でも、夢にしては……温かかった。



昼休み。咲耶先輩とすれ違った。


「よっ、澄子。……昨日、ちょっと疲れてたんちゃう?」


「え?」


「顔、ちょっとだけ変わってた。……悪い意味じゃなく、な」


咲耶さんはそう言って、缶コーヒーをくるくる回す。


「なんか思い出したん? ……忘れかけてたこととか」


「……ううん、思い出せないの」


「ふぅん。……じゃあ、そろそろ“思い出してええ頃”なんかもなぁ」


その言葉に、心がざわついた。



授業中、窓の外にふと視線をやると、

曇り空に──あの時計塔の影が見えた気がした。


見間違いだ。

そんなもの、現実には存在しない。

……でも、あれは、夢だったの?


心のどこかで、もう一度確かめたいと思ってる自分がいた。



帰り道、スマホの通知も、夕焼けの色も、何も頭に入らなかった。


ただ、胸の奥でずっと響いていたのは──

あの少年の声だった。


「探しものは、見つかった?」


そしてもう一つ、声にならない言葉が、頭の奥でくすぶっている。


──その“探しもの”って、何?



その夜、夢を見た。


夢の中で、私は夢街を歩いていた。


道端に、開かれたノート。

そこに書かれていたのは、自分の字だった。


「あの人の名前を、忘れないで」


──でも、名前のあったはずの場所だけ、ぽっかりと風が吹いていた。

忘れたのではない。

大切にしまいすぎて、鍵をなくしてしまったような感覚だった。



翌朝、目を覚ますと、涙が一粒だけ頬を伝っていた。


綾音の声が、廊下の向こうから聞こえてきた。

でもそれとは別に、もっと遠く、もっと深いところから──


誰かの声が、確かに聞こえた。


「……まだ、ここにいるよ」


私は、思わず振り返った。

でも、誰もいなかった。



だけど、机の上に置かれた古い手帳が、風もないのに──

ひとりでに、ぱらりと一枚、めくれた。


そのページには、何も書かれていなかった。

ただ、涙の跡のような、にじんだしみだけが残っていた。



《To be continued…》

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