偽の皇女

 屋敷に戻ると、家中の誰もがせわしなく動き回っている。李長風将軍の襲撃があった時と同じくらい、いやそれ以上の緊張を辺りに感じる。誰かに事情を訊ねられないか、凌雲さんを連れたまま辺りを見回していると、周媽媽おかみが血相を変えて走ってきた。


「蘭、あんた、どこをほっつき歩いてたんだい! 将軍直々のお呼び出しだよ!」

「ええと、あの。何があったんでしょうか」

「あんた今まで寝てたのかい。もとから鈍い娘だと思ってたけど、たいした肝の据わりっぷりだ」

「すみません、本当にわからないんです」


 しおらしく頭を下げると、媽媽おかみは、ふんと鼻を鳴らした。


「戦だよ。家令様から奴婢どもまで、皆が戦支度でてんやわんやしてる。あんたも早く将軍様の所へ行きな」

「えっ、でも、李長風将軍は撤退したのでは?」


 言えば媽媽おかみは、心の底からの侮りを籠めた目で、私を見た。


「これだから、目先しか見えないお馬鹿さんは困るよ。あの将軍は、今上陛下の御下命で攻めてきたっていうじゃないか。それを撃退したってことは、つまり」


 そこまで聞いて、ようやく事態が呑み込めた。「窮すればすなわち変ず、変すれば則ち通ず」……確かに「変」は生じた。けれどそれは、あまりにも急激な動きだった。

 呆然としていると、媽媽おかみは得意げに口の端を曲げてみせた。


「あんたにもようやくわかったかい。間違いなく新手が来る、ってことだよ。当分戦は終わりそうにないねえ」


 戦が終わらない、という点は完全に同意見だ。けれど今の流れは、もっと激しく危険な、奔流のように私には思えた。




 媽媽おかみの案内で、私は将軍の書斎へ向かった。凌雲さんも、主屋の入口までなら来ても良いことになった。凌雲さんの今の出で立ちは、名のある道士にしか見えない。多くのものごとを、人は見た目で判断するのだと、私はあらためて思い知った。

 書斎の許将軍は、品の良い堅牢な家具に囲まれ、ゆったりと椅子に掛けていた。けれど目の下には薄く隈が浮かび、肌の艶も衰え気味で、ここ数日の疲労が見える形で表れてしまっている。私が一礼をすると、将軍は柔らかく微笑んで、傍らへと招いてくれた。


「呼ばれた理由はわかるかね」


 どう答えるべきかわからず、私は問いに問いで返すことにした。


「この城市の……ひいては将軍の御立場は、いま、どのようになっておりますか」

「蘭、おまえはどこまでを理解しているのかね。それによって、私の答えも変わってこよう」


 はぐらかすことも考えた。けれどおそらく、ごまかしは何の益にもならない。素直に答えることにする。


「将軍は此度、みごと李長風将軍を退けられました。ですがそれは同時に、今上皇帝陛下への反逆を意味するように思います。李将軍は陛下の意を受けておられたのですから」

「つまり私は逆賊である、と言いたいのかね」


 言葉は冗談めかしているが、目が真剣だ。言い逃れは、しない方が良いだろう。


「現状を鑑みれば、今上陛下がそう判断なさっても、おかしくはないと……思われます」


 言葉を選びながら返せば、将軍は愉快げに笑った。


「同意見だよ。遠からぬ未来、陛下は私を逆賊とみなし、追討の令を発するだろう。火徳の天下はいまだ混沌とし、陛下の威厳も定まりきってはおらぬ。新帝室の威光を広く知らしめるためにも、反逆者へは厳しい処断がなされるはずだ。ただ」


 将軍の口元から、笑いが消える。

 続く声は囁くように低く、けれどとても明瞭だった。


「私とて、座して死を待つつもりはない。ましてそれが、暴虐なる簒奪さんだつ者の命であれば、な」


 心臓が大きく跳ねた。

 いくつかの言葉が、耳に取り憑いて離れない。

 暴虐。簒奪者。今上皇帝へ、天上人へ、到底向けてはならない禁忌の言葉を将軍は口にした。

 それは、つまり――


「明朝、私は正式に兵を挙げる。正統なる木徳の帝室に反逆し、火徳の帝を僭称せんしょうする逆賊、董文虎とうぶんこを討伐するために、な」


 心臓の高鳴りが止まらない。

 新帝董文虎。父君から帝位を奪い、私たち木徳の帝室を都から追い、すべてを奪っていった男。

 忘れようと思っていた。天命が「木」から「火」に移った今、私ひとりが抗えるはずなどないと思っていた。憎んでも仕方がない、遠い彼方の話だと考えていた。考えようとしていた。

 けれど、許将軍の力があれば、あいつに一矢を報いられるのだろうか。

 考えかけたところで、私の中の何かが思考を押しとどめる。新帝は強大な存在だ。本当に大丈夫なのか。勝ち目はあるのか。


「素晴らしいお志だと、思います……ですが勝てるのでしょうか。偽帝董文虎は、即位の前から、禁軍のすべてを掌握しておりました。そのような相手と――」

「そこでおまえの出番なのだよ。蘭」


 将軍の眼光が、さらに鋭くなった。


「蘭よ、今からおまえは蘭ではない。瑞鳳国皇女・公主蔡玉蘭さいぎょくらん――それが、おまえの名だ。正統の皇女の名を掲げれば、偽帝に反抗する勢力は、必ずや我らに呼応するだろう」


 思わず叫び声が出た。

 私の名。本当の名。まさかこの御方は、私に、「本当の私」になりすませというのか。

 気付けば、握り締めた手に力が籠っていた。指先が、細かく震えていた。


「そ、それは。あ、あまりにも……その、畏れ多く」


 あくまで他人のふりをすれば、将軍の目つきは少しだけ和らいだ。


「気持ちは分かる。昨日まで一介の奴婢、一介の厨娘りょうりにんだった者が、今日から皇女だなどとは。だがね」


 将軍は窓の外を見遣った。

 青い空の下、青々と広がる庭では、せわしなく園丁えんていさんが花木の手入れをしている。ようやく守り抜いた日常の景色だ。ひとたび兵を挙げれば、いつここへ戻れるかはわからない。広がる景色が、今はひどく遠く感じられた。


「兵を動かすには大義名分が要るのだよ。古来、悪政に耐えかねた農民や人足が決起した例は多くある。だが大半が失敗に終わっている。数少ない成功例では、必ず智者が組織を作り統制し、ふさわしい大義名分を掲げて天下の流れを引き寄せた」

「私に、旗印になれと……おっしゃっていますか」


 言えば、将軍の大きな掌が、私の肩を強く叩いた。


「話が早くて助かる。おまえは木徳の帝に縁ある者と聞いている。ならば、恩義ある帝室の仇を討つことに異存はないであろう。加えておまえは、『酸味』の効能を増す秘術まで使うそうだな。酸味はすなわち木徳。ある意味、亡き公主様よりも皇女らしいかもしれんな」

「……お言葉が過ぎます、将軍」

「おお、すまんな。だがおまえは年齢や背格好も、伝え聞く公主様と変わらぬようだ。まるで、公主様に成り代わるために生まれてきたかのようにな」


 本人ですから、とはさすがに言えない。

 将軍は、どこまで私の素性を推測しているのだろう。零落した良家の娘、とまでは知っているはずだ。けれどその先――どれほどの家の者なのか、どのような事情を抱えているのか、までは見抜いているだろうか。

 まだ、すべてを知られてはいないと思う。けれどそう思っているのは私だけで、本当は既にすべて把握されているのかもしれない。

 そこまで考えて、私は大きく息を吐いた。将軍がどこまで知っているのかはわからない。知る術もない。けれど、将軍の思惑がどうあれ、私がなすべきことは変わらない。

 目の前の「今」を、大切にすること。生じた「変」を掴み取り、未来へ繋げること。

 ならば、断る選択肢は、あろうはずがない。


「あまりにも畏れ多い務めながら……謹んでお受けいたします。ただ、私からもお願いがございます」

「何でも言ってみよ。着物や装身具は、位にふさわしいものを用意させよう。食事も、良いものを腹一杯になるまで供するつもりだ」

「私のことでは、ありません。将軍も、ご覧になったかと思いますが――」


 外で待っているはずの、凌雲さんの姿が脳裏をちらつく。


「――我が瑞鳳国を生み、古来より守り続けてくださった神獣霊獣。彼らへの祭祀を復活させていただきたいのです。さすれば聖なる獣の加護も得られましょう、此度の戦で見たように」

「もちろん。神獣への非礼は、偽帝の罪状のひとつとして告発するつもりだ。我が国古来の良風美俗を損なった罪は、必ずや神罰となって簒奪者の頭上に下るだろう」


 話がすんなりとまとまり、安堵する。


「ありがとうございます。実は此度の戦において、城市へ霊獣を呼び寄せた道士がおります。名を馬凌雲といいまして、霊獣との縁も深く、迎え入れれば必ずや大いなる益に――」


 私の言葉を、将軍は頷きながら聞いてくれた。

 将軍の力と霊獣たちの力。合わされば確かに強いだろう。けれどそれは、本当に「火の帝」へ対抗できるほど強いのか。私が受け持つ大義名分の力は、どれだけの恩恵を全軍にもたらしてくれるのか。先はまったく見通せない。


『今を大事にしな、蘭』

『窮すればすなわち変ず、変すれば則ち通ず』


 いくつもの言葉が胸中に蘇る。

 未来への道が通ずるまで、「今」の奔流を懸命に泳ぐ――なにもかもが激しく変ずる中、私にできるのは、それだけであるように思えた。

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