信賞必罰

 どういうことなのか。何が起きているのか。

 回らない頭へ最初に浮かんだのは、得意げに歪んだ周媽媽おかみの笑顔だった。あの人が、私の利になるようなことを、あえて言うとは思えない。

 私は家令様に確かめてみた。


「周掌事しょうじの思い違いということは、ありませんでしょうか」

「私の側でも、他の者に奴婢たちの様子を見させていた。確かに手足の動きは、多少良くなっていたようだ。が、能率にはただちに結びついていなかった、と聞いている」


 だとすると、酸味の効能自体はあったのかもしれない。

 自分の場合を思い出してみる。最初に柘榴ざくろの実を食べた時、私は確かに三倍の能率で働いた。三倍働かねばならなかったからだ。私自身がそう豪語していたし、破れば罰があるとも知っていた。

 だとすれば、他の奴婢たちに足りないのは何か――急に思考が開けてきた。


「家令様。不躾な願いとは思いますが……もういちど、私に機会をください」


 考えが、端から言葉になっていく。


「奴婢たちの働き、必ずや良くしてみせます。お望み通り、いやそれ以上の成果を、きっとあげてみせましょう」

「顔を上げよ、蘭」


 抑揚のない声で、家令様が言う。顔を上げれば、折り目正しい声色と裏腹に、初老の眼光は炯々と輝いていた。


「話を、詳しく聞かせてみせよ」

「喜んで」


 私はふたたび頭を下げた。




 翌日の昼、私は前の日と同じように粥を作った。そして集まってきた奴婢たちを、同じように出迎えた。ただひとつの違いは、傍らに帳房係会計担当さんがついている点だけだ。家令様直属の、家中で最も算術に強い御方だ。

 昨日と同じように空の椀を受け取り、同じように粥と香醋を注ぐ。だが伸びてきた手を、私は制した。


「皆、聞いてください。お昼ご飯を食べる前に、ひとつ、してほしいことがあります」


 香醋のまろやかな酸が香る中、私は声を張り上げた。困惑した表情で、奴婢たちは一斉に私を見た。

 いちど言葉を切り、椀の持ち主を正面から見据える。横から帳房係さんが、冷厳な声で彼に訊ねた。


「おまえの午後の仕事は?」

「ええと、掃除です。主屋しゅおくの廊下で、掃き掃除のあと雑巾をかけます」

「どの程度進めるつもりだ」

「どの程度、と言われましても……できたところまで、としか」

「日頃はどこまでできる」


 眉根を寄せてうつむいて、しばらく唸ったあと、椀の持ち主はようやく答えた。


「掃き掃除は、今日中に終わるでしょうが……雑巾がけは終わるかどうか」

「そうか。ならば」


 帳房係さんは、帳面を開いてみせつつ言った。


「掃き掃除と雑巾がけを、今日中に終わらせてみせよ。とはいえ、ただでとは言わん」


 そこでようやく、私は口を開いた。


「今日のお仕事が、『日課』の通りにできたなら。明日のお昼ご飯にも香醋が付きます!」


 奴婢たち一同が、どよめく。

 椀の主が、目を丸くして何か言おうとする。遮って私は言葉を続けた。


「この香醋は特別です。食べれば身体が丈夫になります。昨日も食べたはずですけど、体調に変化はありませんか?」


 奴婢たちがざわめく。声色に否定や疑念は混じっていない。軽く頷き、私は続けた。


「お仕事をすれば、もっと食べられます。もっと食べれば、もっと元気になります。みんな、元気には、なりたくないですか?」


 声の反応は少なかった。だが沈黙の中に、確かな肯定の手応えがあるように感じた。

 これなら、いけそうだ。

 私は椀の主に、極力やさしい声を作りながら話しかけた。


「どうでしょう。できそうですか?」

「……わかりません」


 目を伏せつつ、椀の主は言う。

 私は何度も頷いた。わかっている、との意を籠めたつもりだ。


「それならそれでもいい。明日の分が普通に戻るだけだから。今日の分を吐き出して返せ、とは言わないから。でも」


 香醋入りの雑穀粥を、そっと差し出す。


「できそうなら、やってみて」


 彼は震える手で、椀を受け取ってくれた。

 そうして私と帳房係さんは、その場のすべての奴婢たちに「日課」を設定した。これまで日々こなしてきた仕事量に、三割から五割程度を積み増し、達成できれば明日の粥に香醋を足す――としたのだ。

 私が発案し、家令様に提案したやり方だった。以前に三倍の能率で働いた時、私はあらかじめ周媽媽おかみにそれを宣言していた。三倍働くと事前に言っていたからこそ、三倍働けたのだ。

 考えてみれば奴婢の仕事は、遅れて咎められることはあれど、能率を上げても良いことはない。少なくとも媽媽おかみからは何もない。「よくやったねえ」程度の褒め言葉があれば、まだいい方だろう。それでは、たとえ身体が活力を得ても、普段以上に働く気など起きるはずがない。

 ならば、信賞必罰の理を持ち込むべきだろう。とはいえ罰は、既に媽媽おかみが得意とするところ。私の側は「賞」、つまり日課達成の恩恵だけを用意すればいい。


「本当に、これでうまくいくのか」


 帳房係さんが、首を傾げつつ帳面を閉じた。


「はい、おそらくは。……香醋入りのお粥、皆がおいしいと思ってくれていれば、ですけど」


 微笑みつつも、胸の内には不安がわだかまっている。

 香醋の酸味は、本当に奴婢たちに効いているのか。皆、きちんと日課の内容を覚えていてくれるのか――次々に湧き上がる不安を、無理に奥底へ押し込めつつ、私は帳房係さんに連れられて離れへと戻った。沙汰がいつ確定するのかは、まだ、わからなかった。

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