監禁と交渉

 その夜、私はどこかの建物に閉じ込められた。

 屋敷の、行ったことのない区画だった。主屋しゅおくからは少し離れた、漆喰壁の別棟が、夕暮れの残照に赤黒く浮かんでいた。その一室に私は入れられた。厚い戸が閉められ、重い金属音と共にかんぬきがかけられると、辺りに物音はしなくなった。

 ひとつだけの格子窓から漏れていた薄い夕陽は、ほどなく完全に消えた。闇の中、私はひとりになった。

 静寂の中、埃の臭いがかすかに漂う。身をよじれば、手足のあちこちが痛む。連れてこられる前、私は奴婢仲間――いや、仲間でもない単なる同勤たちの前で、周媽媽おかみに手酷く打たれた。今も残る痛みは、静寂の闇の中で、より深く骨身に沁み通るように思われた。

 媽媽おかみから伝え聞いた、以前の沙汰を思い出す。


『奴婢が果物を盗もうとするのは、食事が足りていないゆえであろう。まずは食事を増やしてやれ。万が一、そのうえでさらに盗みを試みるようであれば、本人の性質の問題ゆえ厳罰に処せ』


 その言葉が正しいのなら、待っているのは今度こそ厳罰だろう。

 何がいけなかったのか。己の変化をひけらかしてしまったためか。同じ立場の相手を、安易に仲間と信じてしまったためか。媽媽おかみのわずかなやさしさを、変化の兆しと受け取ったのが間違いだったのか――

 他にすることもない闇の中、詮なき考えばかりが胸中を回り、深く沈んでいった。




 格子窓の外がほのかに光っている。いつのまにか眠ってしまったようだ。

 薄い朝日に照らされた部屋が、ようやく全貌を現していた。漆喰壁に板張りの床。壁際には硬そうな藁布団が一枚あった。寝る前に気付けていれば、床で寝ることはなかったかもしれない。

 部屋の隅には、壊れた机と椅子があった。どちらも脚が折れていて、薄く埃をかぶっているけれど、ものは粗末ではなさそうだ。元は何かに使っていた部屋かもしれない。

 総じて、使用人小屋よりもよほど良い部屋だ。この先ずっとここで暮らせ、と言われても、まあまあ耐えられそうなくらいには。

 胸中へほのかに灯りが点った。状況は、思ったよりも悪くないかもしれない――考えかけた瞬間、誰かの話し声が聞こえてきた。そして、かんぬきが開く音がした。


「蘭はいるか」


 聞いたことのない声だった。言葉は折り目正しく、感情は乗っていない。誰かが沙汰を告げに来たのだろう。


「おります。……いかなる沙汰も、謹んでお受けいたします」


 閉じたままの戸へ深々と頭を下げると、木が軋る音と共に、外の空気が流れ込んできた。そして、誰かが入ってきた。


家令かれいそんだ。沙汰を告げる前に、蘭、おまえにいくつか訊ねたいことがある」


 私はさらに深く頭を下げた。

 家令様――屋敷の内向き仕事を取り仕切る御方だ。財産や使用人の管理など、家内のすべてに責を持ち、主たる許将軍からの信頼も厚いと伝え聞いている。本来なら、奴婢である私は、直接お話などできない相手だ。

 その御方が直々に来られた。とすれば、話はどれだけ重大なのか。深く頭を下げたまま固まっていると、また声が飛んできた。


「顔を上げよ、蘭。そのままでは話しにくかろう」

「よいのですか」

「奴婢に礼節など求めんよ。そもそも、私は話を聞きに来たのだ。頭を下げさせるためではなく、な」


 顔を上げると、目の前には初老の男性がいた。髪にはわずかに白いものが混じり、まとった茶色の袍衫ほうさんは、折り目正しくも涼しげだ。同じ茶色でも、凌雲さんの汚れぶりとは天地の差がある。


「早速だが本題に入る。蘭よ、ここしばらく、おまえは日々の仕事で際立った働きを見せていたと聞く。事実か」


 答えを、少しためらった。だが嘘はすぐ露見する。正直に答えるより他に、私にできることはない。


「はい。間違いございません」

「周掌事しょうじによれば、おまえは屋敷外の何者かから、食物の提供を受けていたと聞く。これも事実か」

「はい」

「食物の内容は」

山査子さんざし山葡萄やまぶどう茱萸ぐみ、その他山野の果実でした。それ以上はわかりません」

「提供した人物の素性は」

「それもわかりません。ただ、良い身なりの人物ではありませんでした」

「……おまえの働きぶりが改善したのは、外部から提供された食物が原因であると、周掌事しょうじは推測している。おまえ自身はそう思うか」

「間違いないと、思います」


 そこまで聞き、家令様は大きく頷いた。


「単刀直入に言う。私は、おまえに食物を提供した人物の素性が知りたい。調査の上、信用に値する人物であれば、食材の購入を正式に検討する心積もりだ」


 えっ、と、声が出た。

 凌雲さんが屋敷と取引をする――なんて、考えたこともなかった。けれど、もしその結果、「酸味」の源を安定して堂々と得られるとしたら、私の利になる可能性もあるのだろうか。

 家令様はさらに続けた。


「蘭よ、おまえは無断で屋敷の外から物品を受け取った。本来なら重罰に値する行動だ……が、おまえを罰したところで、我々には何の益もない。一方で、奴婢全員の働きが目覚ましく改善するなら、それは屋敷にとって大きな利益だ」


 頭の中を、考えがぐるぐると回る。

 あまりにも話がうますぎないだろうか。私は無罪放免、凌雲さんも、山野の果実が銭に換わるなら益があるだろう。奴婢たちも健康になり、働きが良くなれば主家も喜ぶ。

 だが何か、落とし穴があるようにも思える。万事がうまくいきすぎて、逆ににわかに信じられない。


「どうだ、やってくれるかね」

「お断りしたら……どうなるでしょうか」

「規律通り、厳罰に処すしかなかろうな。断りなく屋敷の外と通じ、和を乱した奴婢として」


 選択肢はない、ということか。

 私は上方の格子窓を見た。朝の陽光は薄く、夜明けからの時間はそれほど経っていそうにない。


「いま、日の出からはどのくらい経ったでしょうか」

「そろそろ、卯の刻から辰の刻になる頃午前七時頃だろう。どうかしたかね」


 ちょうど、私が毎朝水汲みへ行くくらいの時間だ。今なら、凌雲さんに直接会える可能性は高いだろう。

 けれど、はたして本当に、凌雲さんと屋敷の方々を会わせてしまっていいのか。友好的な交渉と見せかけて、捕らえ、共に罰する心積もりかもしれない。

 私は、どう振舞えばいいのだろう――考えかけて気付いた。家令様は、重要な点を見落としている。


「なるほど。でしたら今なら、昼食を作るのに間に合いますね!」


 精一杯の笑顔を、家令様に向ける。

 思った通り、家令様は目を丸くした。


「作る? おまえがか?」

「はい。家令様の深慮、誠に素晴らしいかぎりですが……ひとつ、検討から漏れている点がございます。すなわち食事を『誰が作るか』。此度の件、鍵となるのはそれでございます」

「食事の作り方など、知っているのかね?」

「はい。四肢の活力を引き出す秘術は、ほかならぬ我が技によるものです。食材はあくまで食材。調える者の技量によって、滋養のほども変わるのです」


 脳裏に、数日前の昼の様子がちらつく。すももを取ろうとしたと疑われ、昼食を抜かれた時のことだ。あの時は、厨房の蒸気に混じった美食の匂いが、耐えがたいほどに空腹を刺激した。

 目の前にあるのは、窓の向こう側へ行く、またとない機会だ。


「家令様。ぜひとも私に、奴婢たちの食事を任せていただけませんか。一食でかまいません。ただいちどでも、目に見える違いが表れるはずです」


 私は深々と一礼した。顔を上げれば、家令様の表情は芳しくなかった。


「なにか、ご懸念でもございますか」

「任せるのはよいが、厨房に山査子さんざし山葡萄やまぶどうの用意はないぞ。特別な食材は用意できんが、それでも構わんか」

「問題ございません。ただ――」


 私は宮中の厨房を思い出した。広いはずの空間は常に厨子りょうりにんでいっぱいで、空気には五味の香りが溢れていた。あそこで、私がいつも使っていた酸味は。


「――酢がございましたら、少しお分けいただきたく。それで十分でございます」


 半信半疑で、家令様は頷いてくれた。

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