三章 青の皇女、厨房に場を得る
木徳の手
翌朝、寝汗の量は増えていた。
間引いた
確かな根拠はなにもない。けれど、『窮すれば則ち変ず、変すれば則ち通ず』。万物が変わりゆくなら、どこかに何かの糸口が生まれるかもしれない。それが明日か、一年先か、十年先かはわからないけれども。
物置小屋で水桶と天秤棒を取り、川へ向かう。朝の日差しを全身に受け、涼しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら歩いていると、不意に名を呼ばれた。
「蘭。……蘭」
振り返れば、青々と茂る夏草の中に、緑とも茶色ともつかないぼろ布が突っ立っていた。見覚えのある汚れ方だ。
「凌雲さん、ですか?」
布の下から手が出てきて、被り物を払った。下から出てきたのは、澄み通った
彼が生きていたことに、まずは安堵する。
「なにか御用ですか?」
「腹が減った。飯をくれ」
天秤棒を取り落としかけた。相変わらずだ、この人は。
「もうないです。本当に何も全然ないです。こないだのお粥は、ものすごく無理して持ってきたんですからね?」
「あれはいらん。もっとましな飯をくれ」
無茶です――と言いかけた私の鼻先へ、凌雲さんは大きな籠を突き付けた。中には小粒の、しかし色艶のいい果実が、ぎっしりと詰まっている。
「食材は用意した。だから飯をくれ」
胸が高鳴るのを感じた。これらは野生の果実だ。酸味を持つ実もあるかもしれない。分けてもらえたとすれば――
心中の期待をよそに、言葉は勝手に口をついて出る。
「料理する場所なんて、ありませんよ?」
「場所はいらん」
凌雲さんは籠を持ったまま、空いた方の手で、私の掌に触れた。
「ただ『徳』だけを、籠めてくれればいい。おまえにはできる、蘭よ。いや、青の娘よ」
昂っていた胸が凍る。
青。すなわち木徳の象徴色。私が「木」に連なる者だと、なぜわかったのか。
認めて良いのか惑っていると、凌雲さんは私の手を握ってきた。指は少しひんやりとしていて、滑らかで心地いい。
「この手は木徳の手だ。春を招き、東風を呼び、目を澄ませ、肝胆を癒し、仁を奮わせ、そして酸味を香り立たせる……この手が『徳』を与えれば、たとえわずかな酸味でも、霊薬のごとく万物を癒すはずだ。ことに五味の均衡が崩れ、著しく酸を欠いている場合にはな」
あっ、と思わず声が出た。
効きすぎだとは思っていたのだ。一昨日、私が食べた
それは、日頃の酸味があまりに欠けていたからだ、と、思っていたのだけれど。
「心当たりがあるのだな?」
凌雲さんの手に、力が籠った。
けれど私には、どうしても腑に落ちないことがあった。
「……あるとも言えますし、ないとも言えます」
青の麒麟。
もしも私の手が、霊薬のごとく万物を癒すなら、どうして麒麟は死んでしまったのか。
宮中で作り置かれていた、たくさんの上質な
けれど凌雲さんは、私の逡巡などおかまいなしに、掴んだままの手を何度も振ってくる。
「つまり、あるのだな」
「ないとも言えると、言っています」
「あるのなら、何も問題はない」
どうにも話が通じない人だ。
凌雲さんは私の手を離すと、懐から木の小さな椀を取り出した。男性の掌にすっぽり収まるほどの椀には、大小の傷が無数についている。
「その手で、汁を搾ってはくれまいか。木徳の手にかかれば、必ずや美味い飯になるはずだ」
半信半疑で、私は椀を受け取った。そして、籠から柔らかそうな実を選び、搾った。
爽やかな香りが、つんと立つ。凌雲さんは軽く目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。何度も、何度も。
別の実を取って、また搾る。凌雲さんの表情が蕩けてきた。
「ああ……なんという美味。これこそ青の徳、春を招く木徳の力」
切れ長の目はうっとりと細められ、
綺麗だ。苦しんでいても、眉をひそめていても、凌雲さんは美しかった。けれど幸せに満ちた今の微笑みには、咲き競う春の花を思わせる華やかさがある。見ている私まで幸せになる。
半ば見とれながらも、私は汁を搾り続けた。椀がいっぱいになったところで、凌雲さんに返す。
「どうぞ」
匂いだけでこうも幸せそうなら、実際に飲んでみたらどうなるのだろう。
私が期待しながら見守る前で、凌雲さんは汁をひと口含んだ。目を閉じ、ゆっくりと味わうように口の中で転がし、喉をひとつ鳴らし……そして、椀を私に返してきた。
「おいしくなかったですか?」
「もう腹いっぱい食った。蘭、あとはおまえが飲め」
やっぱりよくわからない人だ。以前の雑穀粥もひと口しか食べなかったし、これが彼のやり方なのだろうか。
いぶかりながら椀に口をつける。凌雲さんが飲んだのとは反対側から、果実の汁を飲んでみると、ひと口で強烈な刺激が脳天へ突き抜けた。
「す、すごく……酸っぱいですね」
凌雲さんが返してきたのも、わかる。普通に飲める味じゃない。
けれどある意味、これは好機でもある。
「飲めんか」
「いえ、以前に食べたものよりはましです。少なくとも渋くはないので」
間違いない、酸味の供給源として、これはとても優秀だ。しかも、若い
私は再び椀に口をつけた。そして、一気に果汁を飲み干した。
突き刺すような酸味。けれど一息に飲んだから、刺激はすぐに終わる。胃が落ち着けば、そして酸味が体内へ取り込まれれば、一昨日以上の活力を私にもたらしてくれるだろう。
けれどそれでも味は厳しい。咳き込む私へ向けて、凌雲さんが言った。
「口に合わなかったか。おまえが望むなら、これからも持ってこようと思っていたのだが」
「いえ、そんなことは!」
私は大きく首を横に振った。酸味が継続して手に入るなら、これほどありがたい話もない。
「ぜひともお願いします! 確かに味はちょっと、いや、だいぶ独特ですけど。良薬は口に苦し、とは、聖賢の教えにもある通りで」
「
「なら『良薬は口に酸い』ですかね。緩んだ身体を治す薬、いただけるなら大変にありがたく!」
一礼すれば凌雲さんは、嬉しそうに目尻を下げた。
「なら、この先も持ってきてやろう。ただ、代わりと言ってはなんだが、俺の方からも頼みがある」
私は何度も頷いた。
どんな条件であれ、呑むつもりだった。この苦境を変える鍵が手に入るなら、安いもの。そう、私は確かに思っていた。
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