麗しき行き倒れ
翌日、私はいつものように周
今日も仕事は水撒きからだ。物置から天秤棒と水桶を取り、川へ向かう。
道中、私はなるべく何も考えないようにした。独りで考えを巡らせると、昨日の
「うわあっ!」
小さな叫び声があがったのと、私が倒れたのはほぼ同時だった。派手な音を立てて、水桶が道の真ん中に転がる。拾わないと、と身を起こすと、目の前に人が倒れていた。
「あ、す……すみません」
謝っても反応がない。粗布の
「怪我、されましたか?」
覗き込みつつ声をかけても、やはり返事がない。気を失ったのかと揺すってみれば、ようやく、かすかな呻き声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「腹が痛い」
全身から力が抜けた。どうやら、私が怪我をさせたわけではないらしい。
しかしどうすればいいのか。お腹が痛いなら急病だろうか。屋敷で手当を頼めないだろうか、と考えていると、目の前の誰かは緩慢に顔を上げた。
見て、息を呑んだ。
神々しいほどに美しい、男の人だった。磨いた
けれど、だからこそ、着ているものとの不釣り合いがひどい。粗布の上衣は汚れ放題で、元が緑だったのか茶色だったのかさえ判然としない。破れた所を繕ってさえいない。鈍く輝く黒髪も、ぼろぼろの革紐で結わえているせいで台無しだ。
なぜこの人は、美しいのにこうも汚いのか。いや、逆にどうして、汚いのに美しくいられるのか。
混乱しつつ見つめていると、男の人は辛そうに眉根を寄せた。
「すまん。何か、食べるものはないか」
「お腹、大丈夫なんですか」
「もう五日くらい、何も食ってない。腹が空きすぎて痛い」
あぁ、と情けない声を出しつつ、私は地面にへたり込んだ。病気でもなかったのか。私にできることは、この件については何もなさそうだ。
けれど男の人は、私の様子に構うことなく話を続けてくる。
「なんでもいい、飯をくれ。このままだと死んでしまう」
「それ以前に、あなたはどこのどなたですか」
「
「『どなた』は教えていただきましたが、『どこ』はまだですよ、凌雲殿」
「答えたら飯をくれるのか」
「無茶を言わないでください」
冷たく突き放せば、凌雲とかいう旅の人は、見る間にしおれてしまった。でも仕方がない。私だっていつもお腹は空いている。誰かに分ける食べ物なんて、持っているわけがない。
「おまえは飯を持っていないのか」
「あなたに『おまえ』呼ばわりされる筋合いはありません。私には立派な名があります」
「ならば、名はなんという」
返されて気付いた。私に「立派な名」などありはしない。「
名が失われたのに、名への矜持だけは醜く残っている。なんて滑稽なんだろう。
「……
「ほう、麗しき花の名だな。確かに立派だ。姓は?」
「姓を持つほどの身分ではありませんので」
「そうか、だが一字でも十分に佳き名だ、蘭よ。……佳き名で呼んだぞ、飯をくれ」
「結局そこへ行きつくのですね」
「くれ、食わねば死んでしまう」
凌雲さんが身を乗り出した。と思ったら、すぐさま地面に崩れ落ちてしまった。土の上に倒れつつ、綺麗な顔の眉根を寄せて、苦しそうに息を吐いている。
演技だろうか、といぶかしむ。いまにも飢えて死にそうな人にしては、雰囲気が少々変だ。体力はなくなっていそうだけど、その裏に、どこか不思議な活力も隠れていると感じる。言葉も、なんでもかんでも飯に結び付けたがる以外は、おおむね筋道立っているように思える。
この凌雲さんは、食べ物を騙し取ろうとしているのだろうか。でも、それならこんな裏道でなく、もっと人通りの多い所へ行けばいいものを。
「見ての通り、私は卑しい奴婢ですので……分けてさしあげられる食べ物など、あいにくと持っておりません」
「おまえは卑しいのか、蘭よ」
「この衣を御覧になれば、おわかりでしょう」
私は、麻の衣の裾を少し持ち上げてみせた。もともと薄汚れていた衣は、さきほど転んだ時に土がついて、すっかり茶色の斑模様になっている。
「衣が卑しいのはわかった。だが衣はおまえではあるまい、蘭よ」
「卑しい者だから、卑しい衣を着ているのです」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
「なるほど、わかった。わかったから飯をくれ、蘭よ」
肩から力が抜ける。話が堂々巡りしている。というより、おそらくこの凌雲さん、人の話を聞いていない。
「何度も言っていますが、ご飯はありません。私もろくに食べていないんです」
「ないのか」
「ないです」
言えば、凌雲さんは大きく目を見開いた。ようやく話が通じたらしい。見る間に蒼白になった凌雲さんは、道の真ん中で、手足を大の字に開いた。
「人の生、天地の間に在るや、大木に於ける
この人、いきなり何を言い出すんだろう――当惑がまず先に来た。人の生だとか天地だとかを急に語り出した口調は、大袈裟で芝居がかっている。
「天地の情けの一片すら、この卑小の身に受けること叶わず。ああ、憐れみたまえ憐れみたまえ」
言葉も声音も仰々しくて、詐欺師というより役者か講談師に見える。
だのになぜか、胸が詰まった。
青の麒麟の最期が、どういうわけか思い起こされた。廟を揺るがすほどの吼え声をあげて、静かに崩れ落ちた大きな身体。光を失った瞳。思い出せば、左胸のあたりが締め付けられる。
「……凌雲さん」
「なんだ。飯は持っておらんのだろう」
「分けられるご飯は、ありませんが」
私はちらりと、道の行く先を目で示した。
「お水でしたら、これから汲んでくるところですので……喉は渇いていませんか」
「くれ。ないよりはいい」
「でしたら」
道端の茂みを、私は示した。丈高い夏草は、身を隠すにはちょうどいいだろう。
「少し、そこに隠れていてください。水をお持ちしますので」
整った顔でわずかに微笑み、凌雲さんは頷いてくれた。
肩を貸してみると、大人の男性とは思えないほどに身体が軽い。飢えで痩せてしまったのだろうか。ただその割には、胸板も腰も細くはない。
釈然としないまま、私は凌雲さんを草の間に隠した。そうして天秤棒と水桶を拾い、川へ向けてふたたび歩き出した。
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