麗しき行き倒れ

 翌日、私はいつものように周媽媽おかみに叩き起こされた。相変わらず手足は重く、頭ははっきりしなかったけれど、今朝は媽媽おかみに棒で打たれなかったのが救いだった。前日、あんずの木の下で説教されて以来、媽媽おかみの態度は少しやわらかくなっている気がした。そのことだけは、ありがたかった。

 今日も仕事は水撒きからだ。物置から天秤棒と水桶を取り、川へ向かう。

 道中、私はなるべく何も考えないようにした。独りで考えを巡らせると、昨日の媽媽おかみの説教が蘇ってきそうで忌々しい。だから「それ」につまづいたのは、考えごとにふけっていたためではなく、単に不注意からだった。


「うわあっ!」


 小さな叫び声があがったのと、私が倒れたのはほぼ同時だった。派手な音を立てて、水桶が道の真ん中に転がる。拾わないと、と身を起こすと、目の前に人が倒れていた。


「あ、す……すみません」


 謝っても反応がない。粗布の襤褸ぼろをまとった見知らぬ誰かは、土の上に横たわったまま動かない。


「怪我、されましたか?」


 覗き込みつつ声をかけても、やはり返事がない。気を失ったのかと揺すってみれば、ようやく、かすかな呻き声が聞こえてきた。


「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」

「腹が痛い」


 全身から力が抜けた。どうやら、私が怪我をさせたわけではないらしい。

 しかしどうすればいいのか。お腹が痛いなら急病だろうか。屋敷で手当を頼めないだろうか、と考えていると、目の前の誰かは緩慢に顔を上げた。

 見て、息を呑んだ。

 神々しいほどに美しい、男の人だった。磨いた白玉はくぎょくにも劣らぬ澄み通った肌、新月の夜空を糸の束に紡いだような長い髪。瞳の黒はどこまでも深く、覗き込めば吸い込まれそうなのに、静かな輝きを湛えているようにも思える。

 けれど、だからこそ、着ているものとの不釣り合いがひどい。粗布の上衣は汚れ放題で、元が緑だったのか茶色だったのかさえ判然としない。破れた所を繕ってさえいない。鈍く輝く黒髪も、ぼろぼろの革紐で結わえているせいで台無しだ。

 なぜこの人は、美しいのにこうも汚いのか。いや、逆にどうして、汚いのに美しくいられるのか。

 混乱しつつ見つめていると、男の人は辛そうに眉根を寄せた。


「すまん。何か、食べるものはないか」

「お腹、大丈夫なんですか」

「もう五日くらい、何も食ってない。腹が空きすぎて痛い」


 あぁ、と情けない声を出しつつ、私は地面にへたり込んだ。病気でもなかったのか。私にできることは、この件については何もなさそうだ。

 けれど男の人は、私の様子に構うことなく話を続けてくる。


「なんでもいい、飯をくれ。このままだと死んでしまう」

「それ以前に、あなたはどこのどなたですか」

馬凌雲ばりょううん。旅の者だ。答えたから飯をくれ」

「『どなた』は教えていただきましたが、『どこ』はまだですよ、凌雲殿」

「答えたら飯をくれるのか」

「無茶を言わないでください」


 冷たく突き放せば、凌雲とかいう旅の人は、見る間にしおれてしまった。でも仕方がない。私だっていつもお腹は空いている。誰かに分ける食べ物なんて、持っているわけがない。


「おまえは飯を持っていないのか」

「あなたに『おまえ』呼ばわりされる筋合いはありません。私には立派な名があります」

「ならば、名はなんという」


 返されて気付いた。私に「立派な名」などありはしない。「蔡玉蘭さいぎょくらん」の名は、なくなった。懐信に「殺された」時に失われた。

 名が失われたのに、名への矜持だけは醜く残っている。なんて滑稽なんだろう。


「……らん、です」

「ほう、麗しき花の名だな。確かに立派だ。姓は?」

「姓を持つほどの身分ではありませんので」

「そうか、だが一字でも十分に佳き名だ、蘭よ。……佳き名で呼んだぞ、飯をくれ」

「結局そこへ行きつくのですね」

「くれ、食わねば死んでしまう」


 凌雲さんが身を乗り出した。と思ったら、すぐさま地面に崩れ落ちてしまった。土の上に倒れつつ、綺麗な顔の眉根を寄せて、苦しそうに息を吐いている。

 演技だろうか、といぶかしむ。いまにも飢えて死にそうな人にしては、雰囲気が少々変だ。体力はなくなっていそうだけど、その裏に、どこか不思議な活力も隠れていると感じる。言葉も、なんでもかんでも飯に結び付けたがる以外は、おおむね筋道立っているように思える。

 この凌雲さんは、食べ物を騙し取ろうとしているのだろうか。でも、それならこんな裏道でなく、もっと人通りの多い所へ行けばいいものを。


「見ての通り、私は卑しい奴婢ですので……分けてさしあげられる食べ物など、あいにくと持っておりません」

「おまえは卑しいのか、蘭よ」

「この衣を御覧になれば、おわかりでしょう」


 私は、麻の衣の裾を少し持ち上げてみせた。もともと薄汚れていた衣は、さきほど転んだ時に土がついて、すっかり茶色の斑模様になっている。


「衣が卑しいのはわかった。だが衣はおまえではあるまい、蘭よ」

「卑しい者だから、卑しい衣を着ているのです」

「そういうものなのか」

「そういうものです」

「なるほど、わかった。わかったから飯をくれ、蘭よ」


 肩から力が抜ける。話が堂々巡りしている。というより、おそらくこの凌雲さん、人の話を聞いていない。


「何度も言っていますが、ご飯はありません。私もろくに食べていないんです」

「ないのか」

「ないです」


 言えば、凌雲さんは大きく目を見開いた。ようやく話が通じたらしい。見る間に蒼白になった凌雲さんは、道の真ん中で、手足を大の字に開いた。


「人の生、天地の間に在るや、大木に於ける毫末ごうまつのごときのみ……ああ、はかなき毫末、今ここに亡びんとす!」


 この人、いきなり何を言い出すんだろう――当惑がまず先に来た。人の生だとか天地だとかを急に語り出した口調は、大袈裟で芝居がかっている。


「天地の情けの一片すら、この卑小の身に受けること叶わず。ああ、憐れみたまえ憐れみたまえ」


 言葉も声音も仰々しくて、詐欺師というより役者か講談師に見える。

 だのになぜか、胸が詰まった。

 青の麒麟の最期が、どういうわけか思い起こされた。廟を揺るがすほどの吼え声をあげて、静かに崩れ落ちた大きな身体。光を失った瞳。思い出せば、左胸のあたりが締め付けられる。


「……凌雲さん」

「なんだ。飯は持っておらんのだろう」

「分けられるご飯は、ありませんが」


 私はちらりと、道の行く先を目で示した。


「お水でしたら、これから汲んでくるところですので……喉は渇いていませんか」

「くれ。ないよりはいい」

「でしたら」


 道端の茂みを、私は示した。丈高い夏草は、身を隠すにはちょうどいいだろう。


「少し、そこに隠れていてください。水をお持ちしますので」


 整った顔でわずかに微笑み、凌雲さんは頷いてくれた。

 肩を貸してみると、大人の男性とは思えないほどに身体が軽い。飢えで痩せてしまったのだろうか。ただその割には、胸板も腰も細くはない。

 釈然としないまま、私は凌雲さんを草の間に隠した。そうして天秤棒と水桶を拾い、川へ向けてふたたび歩き出した。

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