「李下に冠を正さず」

 重い水桶を担ぎ、川と後庭を往復し終えた頃、日はだいぶ高くなっていた。畑に水をまき終えて、次の仕事は草取りだ。天秤棒が食い込んで痛んだ肩を、媽媽おかみのいない所でさすりながら、私は果樹園へ向かった。

 真夏の昼間に水やりはできない。水が煮立って根を痛めてしまう。だから他の仕事をする。きつい仕事ほど新入りがやらされる。炎天下で腰を屈めて、広い後庭の雑草を、ただひたすらむしり続ける――誰でもできて、誰もやりたくないことだから、当然私の受け持ちだ。

 青々と並ぶ木々には、桃やすももがたわわに実っている。なつめはまだ緑色だ。実のない木は、収穫を終えたあんずだそうだ。痛いほどの日差しに射られながら、樹の下に生えた草を、ひたすらむしっていく。

 いつものように、すぐに腰がつらくなった。元から重い手足も、ますますだるくなってくる。額や鼻先から、とめどなく汗の粒が落ちて、ときどき目にも入って痛い。いや、汗だけでなく、乱れた髪の毛まで顔に貼り付いてくる。

 せめて髪だけでも直そうと、私は手近な木の根元に腰を下ろした。土まみれの手で汗を拭い、貼り付いた髪をかき上げると――不意に体に衝撃を感じた。


「なにやってんだい、泥棒猫!」


 周媽媽おかみの怒鳴り声。棒で打たれたのだと、その瞬間わかった。でも、どうして。

 体を起こそうとすると、また叩かれた。地面に転がった私を、媽媽おかみは何度も何度も打った。


「やめて! やめて、ください!!」

「蘭! あんた、自分が何やってるかわかってんのかい!」


 わかりません――と言ってしまえば、もっとひどく叩かれる。わかっているから何も言えない。私は身体を丸めて、嵐が過ぎ去るのを、ただ待つしかなかった。

 体中が痛くなるほど叩かれて、ようやく媽媽おかみは手を止め、木の上を見上げた。おそるおそる視線の先を確かめると、私が座っていたすぐ上の枝に、まだ青い柘榴ざくろの実がふたつっている。


「主家の果物を盗もうなんざ、どれだけ恩知らずなのかねこの娘は。愚図、怠け者、おまけに手癖まで悪いときた。役立たずならまだしも、性根が――」

「違います!」


 思わず私は叫んだ。さすがにこればかりは、抗弁しないと身が危うい。奴婢が家のものを盗もうとしたなんて、どんな罰があっても文句は言えない。この誤解だけは解かなければ。


「私は、髪を直そうとしただけです。天地神明に誓って、柘榴ざくろを取ろうとしたわけではございません!」


 深く頭を下げれば、ふん、と媽媽おかみの鼻息が聞こえた。そして――背中に痛みが走った。

 二度、三度、また叩かれる。前よりもひどく。


「やってません! 取ってません! 信じてください!!」


 叩かれるのはもう仕方ない。でも、無実だけは信じてもらわないと。哀れで惨めな声を必死に作って、懇願する。

 すると不意に、木の棒が止まった。


「あんたは本物の馬鹿だから、知らないだろうけどねえ」


 ねっとりした媽媽おかみの声が、上から降ってくる。


「昔っから言うもんだよ。『李下に冠を正さず』ってねえ。疑われるようなことをするもんじゃない、って意味さ。果物の下で手を上げたら、盗むつもりだって思われて当然。あたりまえの道理だよ」


 返す言葉が出てこない。

 詩句は知っている。『瓜田不納履瓜田に履を納れず李下不正冠李下に冠を正さず』……古い詩の一部だ。瓜畑で靴を直したり、すももの木の下で冠を直したりすれば、盗むつもりだと疑われる。だから「疑いを招く行動をしてはいけない、行いは常に清くあれ」と、父君からも先生からも、よく聞かされた言葉だった。

 だからずっと思っていた。これは、自分を戒める言葉なのだと。

 他人を責めるための言葉だとは、思ったこともなかった。

 疑われるようなことをしたから、この相手は叩いてもいい――そんな風に使う文言だとは、考えたこともなかった。


「初めて聞いた、って顔してるねえ。馬鹿の上に無知ときちゃあ、あんた、本当に救いようがないよ。いくら奴婢だっていっても、せめてもうちょっとは頭使いな、他人の話は聞きな」


 心の底からの軽蔑が籠った、つまりいつもの表情で、媽媽おかみは私を見下ろした。


「ともかくこの件、家令に知らせておくよ。追って沙汰があるだろう。どうなるかはわからないけどねえ、昼飯が食えるとは思うんじゃないよ。ことによっちゃあ、晩飯も、明日の昼飯もないかもねえ?」


 口の端を歪めて、細い目をさらに細めて、媽媽おかみがくっくっと喉を鳴らした。目尻の皺がくっきり浮いた、心の底から楽しそうな笑いだった。

 媽媽おかみの背を見送っていると、不意に蛙の鳴き声が聞こえた。この炎天下に、と首を傾げれば、今度はもっと大きく鳴った。私の胃袋の音だった。

 顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしいなんて、いまさら思ってはいない。ただ、なにもかもが悲しかった。食べ物を欲しがって鳴く、疲れきった重い体も、嫌になるほど卑しかった。なによりも、卑しい存在でありながら己が卑しさに落ち込む、思い上がった己が心が、ただただ浅ましかった。

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