瑞鳳食華録 奴隷皇女は霊獣と共に天下を正す

五色ひいらぎ

一章 青の皇女、「死す」

木徳の皇女

 かめの蓋を開くと、酸味を含んだ香気がふわりと立ち上った。中を覗けば、漬け込んだ芥子菜からしなは淡い金色に変わり、清らかな汁の底で静かに眠っている。

 私は顔を少し近づけ、匂いを深く吸い込んだ。

 深いこくを含んだ、けれどあくまで爽やかな香りが、胸いっぱいに広がる。さいわい、悪い臭いは少しも混じっていない。

 ほっ、と安堵の溜息が出た。長く寝かせた酸菜さんさい――つけものの出来を確かめるのは、何年経っても、何度やっても緊張する。まして今は、私たち帝室の命脈さえもがここに懸かっているのだ。

 清めた箸で菜を引き上げ、大皿に積んでいけば、たちまち黄金の小山がひとつできた。盆に乗せて蔵を出ると、入口に控えていた護衛の武官が、私へ向けて深々と頭を下げてくれた。


「お持ちしましょうか、公主様」

「大丈夫よ、懐信かいしん。それに、荷物持ちはあなたの役目じゃないし」


 宋懐信そうかいしん――彼が御前帯刀侍衛ごぜんたいとうじえいを拝命し、私の警護を受け持つようになってから、もう四年くらいが経つ。若き俊英と名高い武人にとって、奥向きでの皇女護衛など退屈ではないかと、はじめは心配もした。けれど四年間ずっと、彼は毎日優しく微笑みながら、私の一挙一動に気を遣ってくれている。ちょうど今のように。


「重そうですが、本当によろしいですか」


 鼻筋の通った端整な顔が、目を細めた。結い上げた黒髪には一筋の乱れもなく、錦で飾られた武具と見事に調和している。宮城の飾りとしても理想の美男子だ。有能英邁なはずの彼が、宮中の警護職から何年も動かないのは、もしやこの美貌も一因なのか、とさえ思ってしまう。


「そんな重いの、あなたが持ったらだめでしょう? もし今ここで賊が襲ってきたら、持ったままで剣を抜くの?」

「ですが、公主様――」

「大丈夫、これも私の仕事だから。懐信は懐信のお仕事をして。料理は皇女の仕事、皇女を守るのはあなたのお仕事」


 盆を持ったまま、私は微笑んでみせた。目を細めつつ、懐信の腰をちらりと見る。錦の帯に留める形で、華麗な剣が佩かれている。柄は玉で飾られ、鞘には龍の彫物が施された宝剣だ。


「そのとおりでございますね。我が使命は国家の安寧。我が主は、正しき皇帝ただひとり……主から与えられた仕事を、おろそかにするところでした」


 懐信は私へ向けて、深々と礼をしてくれた。本当に素直で実直で、素晴らしい武人だと思う。私が独り占めしているのが、もったいないくらいに。


「それは、いつでも抜けるようにしておいて。必要な時に、ね」


 言えば、懐信は腰を折ったまま、何度も小さく頷いてくれた。




 瑞鳳国ずいほうこく――その名の通り、鳳凰ほうおうに率いられた瑞獣・神獣たちによって、この国は生まれた。

 万物をかたちづくる「五行」――もくごんすいの流れを、聖なる獣たちが整えた。天と地は分かたれ、天には日と月が生まれ、地には草木が茂り、そうして大地は人が住める場所になった。

 だから恩を忘れぬよう、人は神獣を崇め祀る。太祖帝、すなわち人間最初の皇帝とその后が、初穫れの麦を麒麟へ供して以来、代々の帝室は最良の食物と酒とを神獣へ捧げてきた。

 そして今、この国で神獣をもてなすのは、ほかならぬ私――今上皇帝の長女たる皇女蔡玉蘭さいぎょくらんの役割なのだった。


 厨房に入れば、用意は万端整っていた。

 かまどには十分な薪が入り、まな板と包丁はすぐ使える位置に並んでいる。傍らには調味料と油の壺、清水で満ちた水差し。追加の食材にも不足はない。

 まな板の脇に、酸菜の大皿を置く。さあ、これですべてが揃った。あとは皇家の「徳」を、籠められるかぎり籠めるだけ。

 侍女たちの不安げな視線を浴びながら、私は天を仰いだ。静かに、祈りの言葉を唱える。


「天の上帝じょうていよ、地の后土こうどよ、吾が一言を聴きたまえ。吾、今、百味の精をもって五行の気を調ととのえ、もって瑞獣のもとめに供せんとす。願わくは天、憐れみを垂れ、地、誠心を納め、万霊安寧にして、邪を退けんことを」


 拱手して一礼し、私は酸菜のひと束をまな板に置いた。

 深く息を吸い、吐き、包丁を手に取る。


 ――どうか、今日こそは治りますように。青の麒麟が元に戻りますように。


 念じつつ、私は酸菜に包丁を入れた。

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